modus inflamarae

女性に対する暴力と社会の進歩

広告

先日、とある論壇記事がフランスの新聞、Le Monde紙に掲載され、議論が巻き起こっている。

それは「Nous défendons la liberté d’importuner, indisensable pour la liberté sexuelle(性の自由に不可欠な、しつこくする自由を私たちは擁護する)」という題名で、執筆には有名作家のカトリーヌ・ミエなどが関わっている。そしてそれに署名した中には有名人もいて、例えばカトリーヌ・ドヌーブなどが署名人の一人となって話題になった。

一連のハリウッドのワインスタインのスキャンダルに続き、世界的に#Metooや、フランスでは#BalanceTonPorcという運動になり、何百万人もの女性たちが日々受けてきた、受けているセクハラや性的被害について声をあげている中、この記事はそのような運動(流れ)に対抗するという位置付けだ。

要するに、男性は女性に対してしつこくナンパをするくらいの自由はあり、ちょっとある日、女性の膝を触ってしまったからといって辞職に追い込まれるような社会はごめんだ、というような内容だ。

私が読んでまず最初に思ったのは、完全に焦点がずれたことを言っているな、ということ。そして目に余る議論の矛盾。社会が良い方向に進もうとするその時に、必ずその変化を恐れる人がいる。そんなことについても改めて痛感させられる記事だった。

文化の違いを超えた問題

この記事の内容については日本でもいくつか翻訳されたり紹介されているようだが、一部で、フランスと日本では文化の違いがあるから、と言った意見もあるようだ。日本から見ていると、フランスやイタリアなどでは、イケメンがしょっちゅう道端でかわいい女の子をナンパしている、みたいなイメージがあるのだろう。

そしてキスをしたり勝手に膝に手を置くという行為はフランスではナンパ=許されること、とこの記事からは捉われかねない。しかし、断固そんなことはないと言いたい。私の勤める会社(フランス人しかいない)でも、この論壇記事は話題になり、特に男性陣が呆れかえっていた。署名人たちは問題の本質を見ようとしていない、と。とにかくフランスだからと言って知らない人にキスなんて全く許されないことだ、と改めて言っておく。

これは程度の問題でも文化の違いでもない。そして暴力という問題は文化の違いとかいうレベルで片付けてしまえる問題ではない。

程度の問題ではない

私は中高時代、そして今もフランスで暮らすが、道端で非常に屈辱的な言葉をかけられたことなど何度もあるし、それを無視したら罵倒されたこともある。道端で突然抑え付けられたこと、金払うからヤラせろと言われたこと、メトロ内で体を擦り付けられたこと、突然肩に腕を回されたこと・・・あげればキリがないが、何度もある。これらは私からしてみれば相手を誘惑するためのナンパ、などではなく、紛れもない暴力だ。

そしてこれは、私だけではなく非常に多くの女性が日々遭遇している不幸な出来事の一部なのだ。その時々に女性たちが感じる、嫌悪感、不快感、そして何よりも恐怖。

「単なるナンパくらいいいだろう」とか、「しつこくする自由ぐらいあるだろう」なんていう人たちは、実際の「ナンパ」だとか言われていることがどれだけひどく屈辱的なことなのかを知らない。この一連の#Metooなどの流れは、そういう側面を問題にしているのに。

そしてこの記事は題名からもわかる通り、セクハラや性的暴力に対して、ノーという自由(それが必ずしもできる状況ではないということはなぜこの人たちは知らないのか非常に疑問だが)はしつこくする自由なしでは成り立たない、などという。

フランスではこの記事が発表された後、一気に反発の声が上がった。今も多方面から批判を受けている。

その一つとして、France Info上に、この記事に対抗した論壇記事が掲載された。

その中で、「しつこくする自由」の記事が勘違いをしている点としてあげられているのが、「健全に誘惑し合う関係」と「暴力」を混同している点だ。ナンパもできなくなる、と嘆いているが、セクハラ(性的暴力)と健全な誘惑というのは「程度の問題ではない」と。これらは本質的に違う問題なのだ。

お互いをリスペクトし合った上で、平等な関係の上でなされる男女のやりとりと、暴力的な一方向のタチの悪い屈辱的な言葉かけ、これはどう考えても同じではない。

今問題になっていること、というか、ずっと昔から問題になってきていることは、この女性に対する「一方的な暴力」なのだ。

やりすぎなのはしつこい側(男女平等への長い道のり)

フェミニズム史や思想に関する哲学者、ジュヌビエーブ・フレスはFrance Infoのインタビューの中で、「この記事にあるような意見は、フランス革命直後の200年前に問われた問題と同じ構造をしている」という。

どういうことか。

フランス革命の直後に出てきたフェミニズム思想への批判というのは、「フェミニストが男女間の関係を壊してしまう、これからは友情しかなくなってしまう、男女の性が混同されてしまう」と言った言説だったのだ。この記事と全く同じ論理だ。

男女関係というのは要するに、不平等の上で成り立つものであり、それは守らなければならない、と言っているのと全く同じになってしまうのだ。

France Infoの対抗記事では、次のような言葉もあった。

ほんの少しだけ男女平等へ一歩進んだと思ったら、必ず、何事もやりすぎはよろしくない、などという人たちが現れる。しかしまさしくやりすぎ、という状況が現代女性たちが経験していることだ、と。

セクハラを含め、暴力的な性的被害に日々遭う女性たちが世界中にいるというこの状況、時には一日に何度も。そんな状況こそ、まさしく異常だろう。そしてそれを誰もが異常だと認めるべきだろう。だから女性たちが声をあげ始めているというのに、「それは言いすぎだ」、だとか、「大げさだろう」、とかいう言葉はまさに滑稽でしかない。

やりすぎなのは、しつこい側だ。

不平等な基盤と暴力

私が好きなラジオ・パーソナリティー(ちなみに男性)にギヨーム・ムリスという人がいる。彼の番組では時事問題や社会問題をいろんな人たちへのインタビューを通しながら面白おかしく語る。この記事が掲載された直後、彼は署名人の一人である、Sophie de Menthon(ソフィー・ド・マントン)にインタビューを敢行。その内容を紹介している。

このソフィー・ド・マントン(女性)の考えの浅さや矛盾に間髪入れずツッコミを入れるムリス。なぜか男性に問い詰められ自らの矛盾を露呈してしまうド・マントンとのやりとりがおかしくて笑ってしまった。面白かったのだが、同時に非常に重要なポイントをついていたと思う。

===

「性的衝動は本質的に攻撃的で野蛮であるのはよく知られていること」というくだりが記事にあるが、これは「男性の性的衝動、ということですよね」、とムリスが聞くと。

ド・マントンは、「いえ、違う!女性にも男性と同様に性的衝動はあるんですよ」。

ムリス「わかりました。でもじゃあなぜ私の周りには一人もメトロで女性に体を無理やり擦り付けられた経験をした男性がいないんでしょうか」と。

===

つまり。男性と女性の状況には根本的に大きな不平等が横たわっている。それがそもそも問題の前提だろう。

それをなくすために物事が進んでいるというだけなのに、なぜ「過剰」だとか「少しぐらいいいだろう」とか後退するような言説が出てくるのか。普通に考えたら全くロジカルでもなんでもない。

男女平等が言われてもう長い。長すぎる。しかしその道のりはまだまだ長い。こういうことが起きて垣間見えるその長さ。

でも、哲学者のフレスは少し希望を持ってか、こう言っていた。

「これからナンパができなくなるなどと騒ぐ前に、(このワインスタインから続く一連の運動の結果)政治的にどういう変化が起きているのかをみるべきです。例えば米アラバマ州でわいせつ行為で疑いがあったロイ・ムーア氏は再選されなかったし、セクハラ撲滅のために動いているケイト・ブランシェットがカンヌ国際映画祭の審査委員長に選ばれました。こういう方が興味深い結果です。性が歴史を形成し、歴史を作るのです。」

最後に。

女性という一つの塊でみるのではなく、女性も多様である、ということをもう一度ここで再確認しておいた上で。

この署名をしている人たちが誰か、どういう人たちなのか、というのも見てみるべき点だろう。ごく一部かもしれないが話題になって名前が上がっているカトリーヌ・ドヌーブ、エリザベス・レヴィ、ソフィー・ド・マントンなど、どう考えても毎日メトロに乗って通勤したり繁華街のバーに行く人たちではない。パリの中でも高級住宅街に住んで、例えばバルベス(大衆的な地区)なんて足を踏み入れたことなど一度もない、という感じだろう。一般的な現代女性の日々の日常とはちょっとほど遠い生活をしている人たちだ、ということだ。

女性にもいろんな意見があるのは大前提だとして。この論壇記事の内容がフランス、そして全世界の多くの女性の考えを代弁しているわけでは全くない、という点はとりあえず明白かと思われる。そしてその点に少しだけ救われる。

M

広告

広告