Home

フランスにいてよく感じるのは「公共(public)」とつくものに対する執着心だ。例えば、「教育機関」に対して。

「孫が私立の幼稚園に入ったらしいの、信じられない。私立なんて入れるからこの社会にはいろんな人がいるんだってことを知らない子が増えてしまう。似た者同士だけが固まっていればいいってわけじゃないでしょう」とすごい勢いで怒っていたのは3歳の息子を持つ友人の母親だった。遠方にいる孫が私立幼稚園に入ったことにどうも納得がいかないようだった。

この怒りはどこから来ているのか、9月、新学期を迎えたフランスで考えさせられた。

公立か私立か

フランスでは幼稚園から学校教育の一環と定められているため、義務教育ではないけれど、3歳児の90%程度が幼稚園に通う。また、幼稚園もécole(学校)と呼ばれ、教育省(Ministère de l’Éducation nationale)の管轄下にある。そしてフランス全土に公立幼稚園は16 056校あるが、それに対して私立幼稚園は133校にとどまっている(2010-2011年度教育省資料より)。

要するにイメージとしては、たいていの子供は近所にある公立幼稚園に通っている。また一つ加えておけば、フランスの私立校の学費は日本のそれに比べるとたいていの場合は大したことはない。特に幼稚園なんてなると、モンテッソーリのような国が認定していないごく一部の幼稚園を除けば月に数千円程度だ。それは、日本の「公立」幼稚園の保育費の半分程度に相当するはず。

しかしそんなフランスでもやはり「公立か私立か」という問題がないわけではない。金銭的な問題ももちろんある。高くないといっても払えない人はいる。それがフランス社会だし、おそらく本当は日本だってそうなのだ。

ただ今回ここで考えてみたいのは金銭的に払えるかどうかという問題が発生しないところで、公立か私立か、で迷う時のこと。なぜ親たちは悩むのか。なぜ、上記したおばあちゃんは怒っていたのか。

ある母親のジレンマ

それについて、Arte Radioで面白い番組があった。娘を近所の公立幼稚園に通わせているある4歳児の母親が、娘を私立に転校させるべきか悩むという話だ。

パリの14区に家族で暮らす彼女は高等教育も受け、どちらかというと中級以上の収入のある家庭。でもそんな彼女の子供の校区には、いわゆる低所得者層用のアパート群も含まれる。だから校区内の公立幼稚園にはアフリカ系やアラブ系の子供たちが多い。要するに白人の娘がマイノリティーなのだ。娘はそんなことはお構いなしで楽しそうだし、彼女自身も子供の親たちと仲良く過ごしていた。そして周りの友人や会社とは社会的に違う立場や環境にいる人々の輪の中にいられる時間も楽しかった、と語る。先生たちも素晴らしく、学校の施設にも問題はない。彼女は娘の幼稚園が好きだった。それに自分は、このような社会的混合(mixité sociale)の思想をずっと尊重してきたのだから、と。

それでも。ふとした瞬間に、自分がどこか嘘っぽい気がすることがあると気づく。いわゆる「白人」の隣人たちはこぞって子供たちをすぐそばにある私立幼稚園にいれている。アラブ系のママ友からは、「あなたも早く私立にいれなさい」と言われる始末。逆に移民の母親たちの方が割り切っていると感じる日々。それでも彼女としてはこの状況で特に問題が起きないのなら良かったのだが、とうとうある日、園長が保護者の誰かに刺されるという事件が起きてしまう。結局園長は異動。彼女は考える。そういう状況でどうやって子供を育てていくのか。幼稚園はまだいいけれど、同じ校区の小学校は周りにある私立のレベルには達しないことは明らかだった…。

彼女は自分の信条的に我が子の教育は公立で受けさせたいと考えてきた。公立学校の根底にある思想、社会的な意義や意味にこれまでずっと共感してきた。フランスが掲げている「平等」という価値観に基づく公立校。それを自分は理想としてきたし、信じてきた。私立では子供達の「選別」が行われてしまうのに対し、教育の平等、そして社会的に様々なバックグラウンドを持つ子供達が一緒に学べる場、それこそが公立校だ。だからそれを裏切ることがなかなかできない。

一方、レベルが低く、問題が起きることも多い公立校に我が子を通わせ続けるべきなのか…

実は彼女のような悩みを抱える人はたくさんいる。我が家でも似たような議論がなかったとは言えない。

そしてこの母親も、自問自答を繰り返す。

社会の分断を認めたその先で

自らが理想としてきた思想が実際の生活レベルにおいては自分がマイノリティーになることを指すという矛盾した現実。そこに明らかに存在する社会の分断。そしてそんな現実と理想の社会像に対して、自分はどうあるべきか…

お金をちょっと払えばいいんでしょ(私にはそれができるし)、と考えて私立に入れるのは簡単だ。でももしかしたらそれこそが社会の分断を広げることにつながる行為ではないだろうか。上記したおばあちゃんの怒りの原因がまさしくここにある。

あるいは、親の役割はなるべく子供に良いものを与えることだ、と考えると、我が子がもしかしたら苦しむかもしれないのに、社会のためだという理由で公立校へ無理やり行かせるのが果たして正しいのかどうか。

こうやって公立校にするかどうか、その役割とはそもそも何か、という問題を真剣に考えることが実は自分が所属する社会全体について考えることにつながる。自分が所属している社会、つまりどこかで自分もお世話になっている社会。支え合っているはずの社会…責任を持った社会の一員としての行動と、一人の親としての行動から生じるジレンマに挟まれて悩む。

社会の中で自分はどうあるべきか

つい先日、ある雑誌の特集で、アメリカの超がつく富裕層がこれから世界で何が起こるからわからないから、と巨額をつぎ込んで自らの身を守るためにバンカーを築いているという内容の話を読んだ。

これは極端な例だとしても昨今の社会の中での個人の位置付けや、個人が社会全体を考える力について示唆している例だと思った。

自分で自分の身を守る。これに徹することで結局自分が生きている社会を振り返る力がなくなっている。

上記した母親は、自身の経験を通じて、フランス社会の分断を実際に経験しながら公共サービス(教育)の意義について考えた。そうすることで、その社会における(そしてどんな社会にも存在する)「私たち」と「彼ら」の境界線を認識できるだけではなく、それに対して自分はどうあるべきか、という問いにまで進めている。

フランスにいると役所や病院、学校などで嫌な目に遭うことはしょっちゅうだ。サービスが悪いし一体どういうつもりで仕事をしているんだと思う瞬間はよくある。そういうことがあると義母に言われる。「ちゃんと苦情の書簡を書くのよ」と。ここで諦めてしまったらパブリックセクターがどんどん悪くなっていくことに加担することになる、と。

それはそれでいいではないか、という考え方もあるだろう。でもそもそも自分の社会において、パブリックセクターの役割とは何かをきちんと考える必要がある。その根本にある考え方は、社会にいるどんな人にも、基本的なサービスを平等に提供するべき、というものだ。

今の時代、何かにつけて保身に走ることはよくある。これから先のことを見据えて、それに備えることができる人たちとできない人たち。それぞれが共に暮らすのが社会だ。だからこそ社会には問題が絶えないし、社会に属するすべての人が喜ぶような政策を立てるのもほぼ不可能だ。でもそこでそれぞれが自分勝手に保身に走るのが良い社会を築くことにつながるともなんだか思えない。

社会をよりよくする、ということ。それは時には居心地が悪い思いをしなければいけない時もあるということとセットなのだろう。別に私はここで私立、あるいは公立の批判がしたかったわけではない。いろんな理想と自分の個人的な現実のバランスを取れる人はなかなかいないのだろうし、とにかく自分こそまだまだだ、と痛感したフランスの新学期だった。

M

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中