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フランスは4月に大統領選が行われる。右派と左派は選挙戦が公式に開始する前から予選を行い、だいたいの候補者が出揃った。

さて、大統領選ということだが、大統領を選ぶとき、市民にはそれぞれ様々な思惑があるわけで、各人は願いを「たった一人」の人物に託す。そして時には自らの理想の人物をそこに投影し、自分の社会を正しく代表してくれることを期待する。支援者たちが集うミーティングでは人々が候補者の名前を叫び、場を盛り上げる(それを嫌がる候補者もいるが)。

しかし。こんなに複雑化した現代社会を代表する人物が「たった一人」ということや、その人物が大きな権力を握るということはそもそもどこか不自然、アンバランスなのではないだろうか。

今のフランスで、たった一人の人間が強い権限を持つことの意味はどこにあるのか。大統領とは、そして大統領制とはどうあるべきか(あるいはなくなるべきか)。

これらの問いが今のフランスの政治が抱える問題の根本を理解するために大切な点だと感じる。

ヨーロッパでもポピュリズムが台頭しているとはよく聞くが、今回はフランスの大統領選と政治システムからその問題を考えてみた。

大統領選が向かう方向

“Assassinat politique” – 『政治的暗殺』。これはフランスの大統領選で有力候補の一人であった、右派政党の正式候補者、フランソワ・フィヨン氏が放った言葉だ。

右派政党、Les Républicainsの正式候補者と決定した直後、不正給与疑惑が浮かび上がり、とうとう送検されることになったフィヨン氏。妻と子にも及んだこの大スキャンダルだが、フィヨン氏は政治的な裏工作だ、と言ってはばからない。自身への個人的な攻撃であり、かつフランス右派を破壊しようとするメディアなどの陰謀によるものだ、大統領選への攻撃でもある、と言う。そしてさらに冒頭のような発言があり、物議を醸したのだった。

民主主義に基づく法制度自体を攻撃するフィヨン氏の態度や発言に対して厳しい批判の声が上がったのは言うまでもない。ちなみにそもそも『政治的暗殺』という言葉はヨーロッパでは長い歴史のある言葉で、様々な歴史的変遷を経てきているのだが、とにかく、フィヨン氏が使うことに違和感を覚えた人が多くいたことは間違い無いだろう。

歴史社会学者のピエール・ロザンバロン氏は、Le Monde紙のインタビューの中で、このようなフィヨン氏の発言は今回の大統領選のポピュリスト的な側面への傾斜を象徴するものだと言った。

フィヨン氏は、司法やメディアを攻撃し、「私は市民の側にいる者だ、民意を守るために戦う」、という。すっかりポピュリスト的な路線に走り、支持者たちとの約束を守るために大統領選も戦い続ける、と悲劇のヒーローかのような口ぶり。フィヨン氏に限った話ではなく、多くの候補者たちは我こそが市民を正しく代表する者だ、という。そしてメディアを批判し、既存システムをやり玉に挙げるところまで行くとポピュリストと見られる。

ただ、もしかしたらこれは大統領制がある限りは避けて通れない道なのでは、とも思うのだ。

フランスの共和政について

実際に大統領制に対する批判や疑問は特にここ数年、フランス国内でも議論の対象になってきている。

フランスは1958年より「第五共和政」という政体を取っている。フランスでは革命の後、王政が廃止され、人民が最高権力を握るという共和政に移行(大統領制という意味とは異なる)。1792年に第一共和政が誕生した。それ以降、立憲君主制や帝国主義を経つつ、現在の第五共和政に至っている。

第四共和政下でアルジェリア戦争が泥沼化し、フランス国内は緊急事態に陥った。そこにシャルル・ド・ゴール将軍が首相に就任し、自ら第五共和政憲法を提示、国民投票を実施して大統領に就く。ここから第五共和政が始まる。

第四共和政に比べると、国民議会(Assemblée Nationale)の権限が弱くなり、大統領権限(執行権)が強化された。

こうして、大統領の役割が強くなったフランスの第五共和政は、落ち着いて考えてみるとどこかクーデーターのような匂いさえ感じられる始まり方をしているとも言えるが、大統領が強い権限を手にしてからもうすぐ60年が経とうとしている。

この第五共和政が誕生した時は強い権力をフランス社会が必要としていた。混乱していた情勢の中、国を一つにまとめる強い力(人物)が求められ、必要とされていた。しかしもう今の時代には合わない政体になってきていると人々が感じているのが現状とも言えるだろう。

今回の大統領選ではこれまでは有力候補と言われていた政治家たちが予選の時点でバタバタと切られ、現大統領が二期目に出馬しない、など今まででは考えられなかったことが起きている。そして右や左にとらわれないことや、「第六共和政」を掲げる新しい顔ぶれが出てきたことも、今までのように大統領を単純に左派から右派にする、というようなことだけでは収まらない動きがあることを示したと思われる。

だから、昨今の極右政党(Front National)の台頭も、既存の政治システムの限界を反映しているという見方もできるのかもしれない。人々の鬱憤を消化しきれないでいる。つまり、この政治システムは今のフランス社会が抱える様々な問題をうまく解決する最良のシステムではなくなってしまっている可能性があるということ。ましてやポピュリズムに傾倒することでしか票を集めることができなくなってきている現システムには問題があると言えるだろう。

今年の大統領選と第五共和政の危機

もちろん、政体を第六にしたところで、権力の在り方がどこまで変われるのかには疑問を呈する余地はある。大統領制を廃止し、議会制に戻すような大改革を「大統領」に就いた本人がするのかという問題もある。しかし、大統領という存在の意味があやふやになり、それまでのように信頼を置けるような権力ではなくなってきているのが現状だろう。

大統領選が始まってからいつも以上に政治の討論番組が流れる昨今だが、大統領候補者たちがよく口にするのが「国民に会いに行ったら」とか「先日、人々の生活の場へ赴いたとき」などの言い方。まるで政治家たちが何かのフィールド調査をしたかのような口調。あるいは下界まで見に行った、というようなイメージ。

一方、有権者側も、政治というのはテレビやインターネット、SNS上で行われているものだと言う感覚があることは否めないだろう。政治は日常に情報として溢れているけれど、どこか実態に欠ける、フィクション化した政治。討論番組や大統領選の予選もどこかリアリティーショーのような雰囲気があった。誰が落ちるか、誰が残るか。

そして、スキャンダルやセンセーショナルな出来事がその人物のイメージを作りだす。その戦いで勝利した者(生き残れた者)が選挙でも結果的に勝利を手にする。冒頭のフィヨン氏の振る舞いやセンセーショナルな発言は、必死に生き残るためのもがきというわけだ。

このような言説が溢れている「政治」と「現実」は確実に乖離している。お互いがフィクションを生きているような、そんな感覚に陥ってしまう。

Médiapart紙にてChristian Salmon氏は今回の大統領選について以下のように述べている。

「昨今の大統領選というのは思想に基づいた内容やプログラムよりもパフォーマンスや表象の生産ということから成り立っている。そしてそれは公共と親密の狭間、政治とモラルの狭間で行われる」。(https://www.mediapart.fr/journal/france/120217/l-affaire-fillon-ou-la-destitution-de-la-ve-republique)

グローバリゼーションも進み、国家の政治的な領域が衰退していく(あるいはとにかく今までとは方向性が違って行く)中で、大統領という存在も単なる権力の器でしかなくなり、ショーのように権力の存在を見せつけるだけの役割しか担えなくなっているとSalmon氏は考える。政治的な役割よりも、無意味な儀式を続け、大統領という役を演じるだけになっている、というわけだ。

結局今日の権力の黒幕は一人の特定できる人物ではなく、それは市場であったりランク付けの企業であったりするわけで、国家で一番の権力者であるはずの大統領は、それらのアクターとうまく交渉を続けることでしか意味を保てなくなっている。

権力の正当性とは

このように大統領制や大統領という強い権力を保持する存在に疑問を持ち始めた市民。ここで見るべきなのは、権力の基盤が何によって正当性を保っているのかというところだろう。

民主主義では数の力が強いけれど、数字がそもそも何に基づいていて、何を表現しているのかを見極める必要がある。

直接投票という方法で大統領の権力への正当性を担保していた第五共和政だが、選挙人たちはその選挙権を「誰かを選ぶ」権利ではなく、「誰かを拒否する」権利として行使するようになっている。そうすると、選ばれた大統領の正当性とは何かを考えてしまう。

Aが嫌だから、まだマシなBに入れる、というスタンスでいつまでも投票するのに嫌気がさしている市民の中には白紙投票をする人も多い。しかしこの白紙投票は無効であるため、投票率には反映されない。投票所にわざわざ行き、白紙で投票する人たちの意思表示をどこかで反映することで、人々が政治に対して期待をしつつも、今の政治家や制度に疑問を呈していることがもっと明確になるのでは、と思うのだが。

とにかく。

様々なイメージ戦略やアンチの理論、さらにはヘイトというもので成立しているように見える今の権力。それに対し、以前にも記事にしたような、Nuit deboutや市民の様々な運動、公共の場における表現などが、「オフィシャル」な権力に取って代わろうとしていると上記したSalmon氏は見る。空洞化していく権力は必死にもがいているように見え、どこか滑稽だ。

既存の政治システムが空洞化してしまい、人々の心もそこから離れている現状。しかしそのシステムを変える決定的な方法がなかなか見えてこない。システムの中で変えようとするのは困難を極めるからだ。型にはまった考え方にしがみつくのはなぜか。それが安心できる一番の方法だから。しかし安心や心地よさに心を許しているといつの間にやら予想だにしていなかった場所へ来てしまったと気づくことがある。もちろん、何十年も続いているシステムを捨て、正解もない中で新しいものを生み出すことほど難しいことはないだろう。フランスが直面している難しさというのはここにあるのだと思う。

政治はタブー、と言いながらもこんなに政治の話題が好きな人たちもいないだろうとよく思う。人々の政治離れということが聞かれてフランスも久しいが、本当は政治に興味をなくしたのではなくて、政治自体が変わるべき時期に来ていると捉えるほうがより正しいのではないかと思ったりする。

M

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