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「社会学修士なんて、役に立たないね」

もう何年も前、就職活動中にとある面接で言われた言葉。

そのときは個人的ショックを超えて、社会が何かに麻痺したように虚ろになってきているという感覚の原因を目の前で見せつけられた気分だった。

そして昨年話題になった人文社会科学系の学部/大学院の廃止や「社会的要請の高い分野に転換」を求める文科省の通達。

世の中は確実にひとつの方向に向かっていると感じる。そしてこれは日本に限った話でもない。

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Alain Denault, “La Médiocratie”, éd. Lux

この方向性について、カナダの哲学者、アラン・ドゥノー(Alain Deneault)が「médiocratie -メディオクラシー」という言葉で表現している。

これはフランス語の「平凡な」という意味の「médiocre」とラテン語の「kratia(政治制度)」を捩った造語。

日本語にするなら『平凡制』、といったところ。

平均という言葉もあるが、それは平均収入や平均的な能力、といったように、平均値を表す。一方で平均的な行動や行為を平凡と呼ぶ。

政治的な立ち位置であったり、思想であったり、常に真ん中をよしとする。余計な知性や好奇心には蓋を。それが平凡制を生み出す。真ん中、そこにいれば安心感を手に入れられる。間違っているという感覚にならずにすむ。

平凡制での社会とはどんなものか。

メディオクラシーの発展と労働

ま ず、メディオクラシー(平凡制)が進む背景には、労働の分業化、工業化があった。世界が資本主義に突き進んでいった時代だった。行程全体の一部に特化した仕事が増え、それと同時に「仕事」というのは「労働力」に、そして「賃金」に収斂され、労働者は入れ替え可能な部品になっていった。

メディオクラシー(平凡制)の中でうまく生きる平凡な人々というのは、枠にしっかりとはまり、うまく仕事をこなす人々を指す。そして全体がどこに向かっているかということよりも自分に与えられた仕事をそつなくこなすことをよしとする。優秀とさえ評される人々。

自分のものではないことに対して労働力を提供し、自分で考えだしたことではない目的のために時間を費やす。

メディオクラシーの政治的基盤

政治への「ガバナンス」の適用がメディオクラシーの政治的基盤を形成したとドゥノーは言う。ガバナンスのレジームに取り込まれた国家の行動は経営ということに集約されていった。今ここにある問題にすぐに対応することがよしとされ、長期的な観点が抜け落ちていった。

政治、「politique(仏語)」の語源は古代ギリシャ語の「polis」から来ていて、自由市民が公共善について議論をし合う場を指す言葉だった。

と ころが最近は「人々が議論をし合う」、というその政治の肝心な部分が抜け落ちている。哲学者のアラン・バディウ曰く、今の政治は国家の運営に限定され、そ の他の政治的行為や政治的闘争はそこに含まれない。国家を「運営」することだけが政治なのだとしたら、誰が政権を握っても、たいしてなにも変わらない。そ して政治というのは単なるフィクションになってしまっている、と。

「政治のことはよくわからないから」あるいは「政治なんてもう面白くない」というようなことは日本でもフランスでもよく聞く。それはつまり、人々にとって政治の定義が、大統領選、だとか内閣支持率がどう、という短期的な視点の話題に限定されてしまい、政治の場というものが欠如してしまったことの現れと言える。

政治の本質的な部分の定義が忘れられてしまった状態。それがメディオクラシー、平凡制下における政治の姿。

メディオクラシーでの教育

さて、平凡であることが重要な価値観として定着したとき、教育機関はそこに来る学生たちをその価値観のもとで大量生産する。そしてある程度頭のいい、しかし自ら考えることをせずに、最終的な方向性や目的の設定を第三者(企業など)に託すような人間を生み出していく。

そこから、「役に立つかどうか」、という判断基準も形成される。仕事の処理能力、時間短縮を上げるためのスキル、企業の効率的な成長に貢献できる力。それ(だけ)がつまり、世の「役に立つ」こと。こうして社会全体の価値観も設定されていく。

ドゥ ノーによればこのような事態に大学も大きく加担してきたという。ウェーバーがすでに100年ほど前に、大学では講義が商品化し、学生たちが顧客化している と指摘しているそうだが、今日では学生たち自身が商品化している。企業が求める人材を育てる大学、そこから好きな商品(人材)を選択する企業…。

設 定された枠にはまることがいいことだ、という価値観に気づかないうちに染まっていく私たち。そして枠にはまると、社会科学の根本にある、「問いを立てるこ と」であったり、「疑問を持つ」、ということを必要としなくなる。誰も触れたくない事柄には触れず、きちんと考えられていない部分にも目をつぶる。そうし て社会が麻痺し、腐敗していく。

私たちは得てして周りと同調して言われた通りの目標を目指して、優等生ぶって経済や世界の成長に一躍かっていると鼻高々になる。

メディオクラシー(平凡制)から自由を考える

心 地いいならそれでいいじゃないか、と言われそうだけど、そこから生まれるのがいわゆる世間の「空気」だったりするんだろうと思う。そしてそれが自主規制 や自粛につながったりも。考えるよりも先に、とにかく自主規制することが賢いこと、いいことのようになり、自ら枠からはみ出さないようになっていく。そう すると安心で誰からも攻撃されないのだから。

昨今話題になった日本の報道の自由。ふと、自らを振り返るべきではとも思う。報道機関に属さない私たちが枠からはみ出さないようにと気を使い、そこからはみ出した価値観や意見をやり玉に上げる。気づかないうちに。ここにこの結果の一因があるような気がしてならない。

独裁制のように上からの圧力がなくても、我々は自ら平凡制を生み出した。

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ドゥノー氏が本書で指摘した重要な点は資本主義社会における人々の政治性や価値観の形成部分に焦点を充てた点だろう。現代社会というのは資本主義の枠があるだけではなく、そこに生きる人々が形成する価値観によって成り立っている。

「朝会社に来て、仕事をして、帰るっていう毎日だけどさ、なんだかんだこの社会はうまく回っているな、と思うんだよねー」とのんびりつぶやいた元上司の一言がよく頭に蘇る。

ドゥ ノー氏によれば、今日の民主主義は脅かされているのではなく、すでに崩壊し、本質的に異質なものが生まれているのだという。全ては気づかないうちに。いま 我々がしなければならないことは、ここからまた本質の異なる新しいレジームを生み出すこと。ドゥノー氏は、世界中の様々な運動や試みがこの平凡制が蔓延る社会を揺るがそうとしていると締めくくっている。

平凡制から抜け出す、新しい価値観を作り出す。ここでこそ人間が長い間ずっと培ってきた社会科学が「役に立つ」のでは。

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