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『保育園落ちた日本死ね』のブログがものすごい反響を得て、その後、政治界をも動かした。

と 言われるけれど、実際は予算委員会で問題を取り上げた議員がいて、署名運動へ繋がったというのが現実で、まだ具体的に何かが本当に動いてはいない。とにか く。この話では、保育園が足りないという点は紛れもない事実。それについては様々な専門家たちがこれを機に人々の関心を深めてくれているのでそこには立ち 入らない。

さて、言葉が悪いから民意としてまともに相手をするべきでない、だとか、聞くに値しない、だとか、日本死ねと言ってはいけません、などと目くじらを立てる人がいるのはなぜだろうか。

注目したいのは「この一本のブログの記事は民衆の声と捉えるべきか」ということだ。果たしてこのブログの声は民主主義システムから外れたところにある、などとと言えるだろうか。

また、この観点から考える問題はもはや「保育園問題は自分には関係ない」と思っている人たちも含められることを付け加えたい。もし日本という「民主主義国」に住んでいる人ならば、この一連の議論を注意深く追うべきだと思うからだ。

的外れな議論

杉 並区議がまた的外れな「それでは日本に暮らさなければいい」ということをブログで書いたわけだけれど、つまりそれは、今の日本の政治やそれに伴うシステム を否定するな、と言っていることになる。現状のシステムを否定、批判したい人は国から出て行け、とは、どこかの独裁国家と変わらない論理展開であり、ぞっ とする。一個人のわめきをいちいち聞くな、というメッセージに愕然とした。

どこの誰が書いたかも分からない、(言葉が悪くて)けしからん、というような類いの反応もあったけれど、どこの誰が書いたか、なんていうことはそもそもの問題の本質でもない。問題はこれがたった一人の問題だったとしたらここまで共感されることはないのだから。

落書きだろうがブログだろうがTwitterだろうが、署名運動にまで発展した声について、「それが便所の落書き」のようなものなのだからなかったことにしていいということにはならないはず。というかそうなってはいけない。

民衆は愚なのか

そ もそも市民/民衆とは誰のことなのだろう。それは教養のある、正しい日本語を使った人々のみを指すのだろうか?もしそうなのだとしたら、それは古代ギリ シャのポリス(都市国家)における民主主義が一握りの男性のみを「自由市民」と定め、女性や奴隷を排除したものを「民主主義」と定義したのと似てはいないだろうか?

民主主義の難しい点は、どうやってすべての人の声を対等に汲み取るのか、(むしろ無理では)という点である ことは間違いないだろう。だから、人の声をしっかりと汲み取り代弁をする役割を担う人を設定しなければただのカオスになってしまう。それが間接民主制。つまり、「たかがブログ、しかも言葉も悪いしどこの誰かもわからない(匿名)、だからそんなものが政治を動かしてはならない」、と考える政治家たちは、 「民衆の声を代弁します!」とは言えなくなってしまう。それではまるで「民衆の声は聞きません。人口のひとつまみをエリートと想定してそこで全部決めてあ げます、異議は受け付けません」ということになり、なんだか情けない民主主義である。

民衆の声を形にするという作業

そもそも、大前提として、民衆の声というのは明確な形を取らない。

フランスの哲学者、ランシエールはとあるインタビューの中で、民衆 (peuple)というのは存在しない、と言っていた。それはつまりどういうことかというと。

(21:40)”… je dis tout simplement que le peuple, ça n’existe pas. Le peuple est une espèce de structure collective qui est constituée par des circonstances et qui est constituée par une sorte de propositions d’identification…”

民衆というのは存在しない。それはある種の集団的な構造であり、その時々の情勢によって成り立ち、また、それを識別するための様々な提案から成り立っている、と。

簡単にいうと、民衆というのは、それをそれと見る視点の問題である、と。民衆(あるいは民意)、という固定の何かがあるのではなく、その時々の状況でその形は変わるし、何がそのとき問題になっているかによって見え方も変わるものである。

常 にうねうねと形を変え、ここからここというような明確な境界線すらない民衆を観察し、それを切り取ったり言葉にしながら「今の民意とはこれだ」という定義 づけをするのが政治家であり、それを明確に文章にしたものがマニフェストなんかであるということ。「今の日本人が求めていることはこれだ」、と言い切って みたり。物事に名前を付ける作業と似ているところがある。

そしてもうひとつ。

“Les idées que les être humains se font sur eux-mêmes, sur leur monde et leur histoire n’existent pas réellement, si ce n’est par la polémique, par la lutte des idées les unes contre les autres ; une lutte, en outre, de chacune, non seulement pour gagner par rapport à l’autre, mais pour arriver elle-même à préciser en quoi consiste sa propre volonté. Il s’agit d’une polémique qui se déroule sur la scène de ce que nous connaissons comme opinion publique, c’est-à-dire dans la sphère de la vie sociale où se discutent les questions concernant toute la communauté, et où se formulent les possibles mesures politiques parmi lesquelles choisira le pouvoir étatique de la société.” Période, Bolívar Echeverría

ボ リバール・エケベリアは、この文章の中で、人々が持っている自分たちに関するイメージというのはもともと存在するものではないと言う。イメージというのは 議論や思想のぶつかり合いの中で浮き上がってくるものでしかない、というのだ。公共の場で、自分の属するコミュニティーの世論が議論の中で形成されるのを 見たり、国家が選ぶ政策を知ることで、そこから自らのイメージを形成していくのだ、と。

このブログのような声があるから世論や議論、さらには政策が生まれるわけで、人が自分を社会の中で位置づけるときの目安にもなるというわけ。

政治家ならば民衆の様々な「声」に対し、感覚を研ぎすませ、それを明確な形、あるいは「文章」にして最終的には政策に持っていくべきなのではないだろうか。(最近はこういう無名の声がブログやSNSを通して文章として形が残るというのは画期的だと思ったり)

政治への期待

最後に、民意と政治という点に加えてこの一連の流れで気になったのは、この言い方に批判が集中している点だった。

日本に対して死ね、という言葉が発せられたこと。これはつまり保育園の問題というのは国家に責任がある、と言っているのと同義なのではないだろうか。言い方 が悪いとか揚げ足取りをするのではなく、これが国家に解決をして欲しいという切実な一人の親から発せられた願いだとしたら。そして経済やビジネスが怪物の ように大きくなり、一方で政治の存在感が薄れているようなこの時代にも、やはり政治に対する要望や期待というのは人々の中から消え去っているわけではな い、と捉えることができないだろうか。そういう風に考えてみると議論ももう一歩進んだところに行けるだろうに、と思う。

そ して、政治家にこそ、社会で起きていることに対して敏感であり、それを読む(理解する)能力を持ち、研ぎすまされた感覚を持っていて欲しいと願う。そのた めには、昨今話題になっている社会科学(文系)の知識。これこそが重要、いや、むしろ必須だと思うわけだけれど、それはまた別で。

M

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