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問題の立て方の問題、とはまた分かりづらいタイトルだけど。何かが問題である、とするとき、その「問題」はすでに存在するもの、定義しうるものとして設定されている。しかし今回ここで問いたいのは、この問題がどのように設定されたのか、どのように立ち現れてきたのか、という部分。

以前、「移民問題」ということを語るとき、それが「問題」としてどのように設定されたのかということについて研究をしていた。移民という存在が「問題」として浮き彫りになるその過程と背景を考えた。この研究の根底にあったのは「社会問題」というのはアプリオリではない、という考えだった。今回はここにあった問題意識に立ち戻ってみようと思う。ある問題について考えるのではなく問題と呼ばれるものが立ち現れてくる様子そのものを再考してみる。

ある社会問題を立てるあるいは認識をするということは家を「建てる」(construction)ということに似ていると思う。空間という漠然とした場所を壁で仕切り、ここからここをダイニング、ここまでがリビング、といったふうに「定義付け」していく。ある空間のどこを切り取るのか、どこに壁を置くのか、そしてどこに支柱を埋めて空間を立体的に切り出すのか。

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ある出来事や事件について、 「これはこういう理由でこういう結果になったのです」と話ができると議論が組み立てられ、そこから問題を抽出することが可能になる。

◆壁をつくる

このように問題を認識できるようにするための具体的な方法として、例えば二文法がある。これは非常に物事を分かりやすくしてくれるが、そこから見えることが真実であるというわけでは決してない。そこにもう一本、あるいはもう二本ほど線を加えてみることが必要なことがある。あるいは、線を加えるのではなくて、そこに引かれている一本の対立線を抜いてしまうこともできるのだから。四方を壁に囲まれた空間に一枚の壁を作る。すると二つの空間ができる。でもなぜそこにその壁を作ったのか、なぜもう一枚作らないのか、という点にもう一度立ち返ることが必要だったりする。一枚の壁ができたらそれを既成事実としてそこを踏み台に議論が組まれていく。「物事を違う角度から見る」ということは問題のもっともっと根本に戻るということにつながるので、単純そうでいて、非常に難しいこと。

昨今のパリでのテロについて考えるとき、ある人はそれを「表現の自由への脅威」の問題として取り上げ、ある人は「イスラム対西欧」と取り上げ、はたまた別の人はそれを「移民の貧困問題」と見る。さらに、それを「フランス社会における反ユダヤ主義」の問題として見ることもできる し、「フランスの刑務所におけるイスラム」の問題としてみることもできれば、「犯罪学」の問題として考えたり「宗教のグローバル化」を見ることもできる。 それはまるで、だまし絵のようだ。これを魔女の絵として進めるのか、若い女性の絵として進めるのか・・・。

004sakushiこれらの見方をひとつだけ選び、議論をすることも必要ではあるけれど、それ以外の見方もあるのだということを意識していなければいけないということ。なぜならば、自分に見えている側面がその事件のたった一つの側面だと思うと別の側面を忘れてしまい、歪んだ事実を作り出してしまうからだ。 例えば最近のフランスでのテロや事件などを総合的に見てみると、ここ数年問題になってきている反ユダヤ主義の問題が見えてくるわけで、実はそこにはフランス社会のマイノリティ同士の差別的構造が隠されていたりするのだ。さらに、マジョリティがそこに批判を加えるというのはまた非常にセンシティブな問題であり、議論が進みづらい。このようにちょっと表面だけ見ていては分からないとっても複雑な構造が存在している。もちろん、物事をすべての側面から議論をすることなど不可能である。でも議論の中に、それ以外の側面があることをきちんと取り込むことがよりよい理解をすることにつながり、誤解を招かないことにつながる。

◆周囲の環境

もうひとつ。家を建てるときには周囲の環境や諸条件も忘れてはいけない。例えばその地域の気候(冬が厳しいのか、あるいは常夏なのか・・・)や、特殊な規定(隣の家と何メートル離れていなければいけないのか、面積の何%が居住面積として利用できるのかなど)がある。これを社会問題に置き換えてみると、それはある問題の諸々の「背景」あるいは「文脈(コンテキスト)」ということになる。同じ家を建てるにしても、周囲の環境によってその形は変わってくるということ。

ここでもうひとつ、このコンテキストについて今日忘れてはいけないのが「グローバル化」。ネットなどを通じて世界中の情報が瞬時に手に入るようになったこの時代。例えばフランスの一部で、モンゴルの「ゲル」と呼ばれる移動式住居がエコロジー的な観点などから一部でじわじわと話題なったり、もう少し一般的なレベルであれば日本家屋のように木材を使用した建築に注目が集まり増えつつある。

ここで問題の構築ということに話を戻すと。「移民」という問題を語るにしても、 それがどの国のどの街のどこからの移民なのか、そしてその国の法や規制、歴史や経済状況によって見えてくるものは異なる。とにかく様々な要素が複雑に絡まっているものだ。だから「移民」「イスラム」 「ライシテ」「自由」「反ユダヤ主義」といった言葉は、それぞれの社会的なコンテキストにおいて考察することが大切だと思う。コンテキスト、つまり時代性ということにもなるわけだけれど、から切り離してしまっては元々の問題を忘れてしまうことになりかねない。昔「低賃金労働者」の問題として語られていたことが今では「移民問題」に置き換えられて語られていたりする。

また、フランスでここ数年問題になっている反ユダヤ主義の台頭というのはネオナチという問題に加えて、上記したように移民のコミュニティ同士での問題、さらにはイスラエル・パレスチナ問題とも密接に結びついている。ここで、「グローバル化するコンテキスト」という点に注意が必要になってくる。つまり、物理的な意味で国家内のことのみをコンテキストとして意識していると、シャルリー・エブドの事件とコペンハーゲンの襲撃事件の背景を同じレベルできちんと議論することができなくなるし、反ユダヤ主義についてもきちんとした理解ができないままになってしまう。

ある人の行為というのは、その社会にいる他の人の行動や行為とつながっているということはウェーバーが理解社会学の根本としていることだけれど、ある人の行為の意味(主観的な)を理解、解釈するためにはその社会的な文脈(コンテキスト)から理解することが欠かせない。また、時代によって可視化されるものも異なってくる。 今の時代というのは、個人の行動が世界に影響を及ぼし、また、広い範囲(グローバル)での出来事が個人の行動に影響を及ぼす。

◆Why / How

現代社会、特にグローバル化の進む社会での社会問題の立て方というのはとっても難しいと今更ながら思うわけだけれど、最後にもう一点。何かの「問題」を立てるときの根本にあるのは「Why」という問いだけれど、そこにはもうひとつ、「How」を加えるように意識するべきではないだろうか。

過激派の思想に興味を持つ若者というのはたくさんいる。しかし、彼ら、彼女らがみな「殺人」や「テロ」に至るわけではない。ここに決定的な違いがあるはず。ただ単純に理由が過激派に傾倒したから、社会的な環境に恵まれず少年の頃から犯罪に手を染めていたから、というのがテロの理由であればどれだけの人が殺人者になりうるだろう。そして、この単純な構図を進めてしまうと、アメリカのブッシュ政権で見たような先制的自衛権や予防戦争というロジックを正当化させることにつながっていく。なので、ここで議論をさらに複雑にする必要がある。ようは「Why」から「How」への転換ということ。パリの3人のテロリストにせよ、彼らがどのように「憎しみ」の塊となり殺人を犯すことになったのか、この「How」を学際的な視点から理解/解釈することが大事なのではないだろうか。

結局アカデミアもそうだけれど、なんとか学、というふうに思考法がすでに切り刻まれているのが現実。私たちも気づかずにこのように切り刻まれた分野ごとにしか物事を見ることができなくなりがちだ。だから問題の立て方もそのような思考に沿ったものになってしまう。そこを飛び越えた視点で物事を語れるようになるのは難しいけれど、そここそが目指すべきところ、なのでは。

M

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