Home

「リアル」という言葉をよく聞く。それは英語のrealをそのままカタカナにしているわけだけど、「本当の」、「現実の」という意味に加えて、「真に迫った」と言ったような現実に似た、という意味も含んでいる。この言葉から少し現実世界ということや擬似的現実ということについて考えてみた。

バーチャル世界にはまる人たち。少し前に流行ったリア充という言葉。日常的にソーシャルネットワークでバーチャルなつながりを求めて端末にアクセスする。GTAというゲームがあまりにもリアルなので社会問題化したり、とにかく現実逃避ということをかなりのレベルで「リアル」にできるようになってきているのが「現実」。あたかも、変な言い方をすれば「正真正銘の現実」を楽しむことの方がレベルが高いことであるかのような…。

gta402

リアルという言葉は「本当に」、「実際に」、ということを強調するときにも使うわけだけれど、それはつまり現実に起こったことはわざわざ強調する必要があるということでもある。この言葉の日本語としての使い方をただ単に「若者言葉」とか、「語学力・語彙力の衰退」ということで片づけてしまうこともできるけど。この現実と擬似の間にふわふわと漂っているような、ある意味便利に使われている言葉。なぜこんなにこの言葉が一般化したのかを考えてみると。ふと、この世界の多くのことが「疑似化」されていると気付く。いわゆる「フィクション」と呼ばれる、本来は現実とは一線を引いているこの領域が、逆に現実に近づこうとするための手段のようになっている。例えばマルク・オジェの言うように、現実の出来事すらが、まるでフィクションであるかのように…。

marc auge

少しここでマルク・オジェの著書、”La guerre des rêves” (仮訳:夢の戦争)について。マルク・オジェは、人間社会(例外なく)が現実と非現実(フィクション)の間を行き来して作り上げられてきたその過程を、【個人的な創造(例えば夢)】、【集団的な創造(例えば神話)】そして【フィクション】の3つのイマジネール(想像域)の柱を軸に表現する。そして昨今、この現実とフィクションの境目があいまいになりつつあり、この3つの柱で作られているイマジネールの領域の健全な関係性が壊されてきていると説く。彼は「視覚‐イメージ」に重点を置いて論を展開。そしてテレビというツールが人々の生活に浸透して以来、現実がフィクション化されていっているという点に警鐘を鳴らす。テレビでひっきりなしに流れる(恣意的に取捨選択された)「世界中」のニュースや、行く前から写真やら動画で旅行先のことが「見える」ようになっている現代では、すべての情報、物事が均一化されている(気になる)。それはもう言い尽くされたことなのだけれど、ここからさらに一歩。つまり、この情報や物事が均一化された状態が人々にどう影響を与えてきたかというと。安心して心地よいリビングでつけたテレビから流れる悲惨なニュースや映像は絶対にその箱からは出てこない。とっても「リアル」だけど、本当に「リアル」なこと、現実として感じることが【でき】ない。これこそがフィクション化された現実。

「リアル」。この言葉は日本語の文脈で使われている限りにおいては、「フィクション化された現実」を指すようになってきている気がしないでもないのだ。

2013-07-14 14.45.51

私たちは身の回りで起きていること、すぐ隣で苦しんでいる人々がいるこの現実をとても簡単に「フィクション化」するという技を身につけてしまったと言える。自分の周りに演劇でいう「第四の壁」を常に張り巡らしてるかのように。いつしか、現実世界の出来事が、まるで「フィクション」かのように表現されるようにすらなってきている。現実を切り貼りしながらフィクションのようになったもの、それを情報として流す。何かきれいに収まった「リアルなストーリー」に満足するテレビの前の人々。いつだったか職場の上司が「なーんか分からないけど、うまく回っているよね、この社会」と言っていたことを思い出す。そしてもちろん、インターネットというのも今やこの現実のフィクション化をさらに加速させている。きれいにまとめられた「(余計な部分は削げ落とされた)リアル」な話をソーシャルネットワークなどを通じて無名無数な人々と「シェア」をする。そんな時代が来ている。現実社会の出来事をきれいにまとめてくれ、フィクション化してくれると、それは選べるものとなる。例えばテレビで流れている情報もオフにすればコントロールできてしまうのだ。(だからこその上記した上司のような言葉がありえる)。現実は丸くおさめられて消費者に提供される。消費者はそれを好きなように選ぶあるいは捨てる。この混沌とした世界をフィクションのようにまとめてくれる人たちがいるから私たちはそれを通してしか現実を見なくなる。難しく考えることもないし、嫌な側面を見る必要もない。マルク・オジェはそれに対し、イメージというのはイメージでしかなく、イメージがパワーを持つことはなく、あくまでそれを生み出している人間がコントロールしているということを忘れるなと言う。ごもっとも。何かに支配されている感覚、物事が自分の手を離れ、コントロールできなくなってきている感覚、オジェはその原因を「外部」や「他者」にみるのではなく、イマジネールの抗体のシステム、つまり社会内部の均衡にみるべきというのだ。

現実のフィクション化、といいつつも、もちろん人間は物事をストーリーとして意味づけをしたり始まりと終わりを設定することを必要とするもの。もちろんそれはオジェも指摘をしている点。どの社会にもフィクションという側面は常に存在してきた、と。しかしこのフィクションという人間になくてはならない側面、それは人間の「想像力」という大きな力が担ってきた部分。それが現代社会では衰退してきているのでは、と感じる。つまり、想像力を働かせることで人は自分の生に意味を見出したり行先を見出したりしているはずなのに、大量の情報と現実、フィクション、リアルのごちゃまぜな世界に放り込まれて、フィクション化を自動的にしてくれるテレビに見入る。そして自ら想像力を発揮することをあきらめてしまっている。

オジェは著書の最後に、この「フィクション化」や「大きな物語の終焉」や「ポストモダン」といった言葉それぞれは「モデル」であり、現実とは別として考える必要があることを付け加えている。そしてイメージの運命はイメージにあるのではないということ、また私たちの運命もそこに委ねられているわけではない、と。

M

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中