Home

スコットランドの独立の是非を問う投票の結果が出た。イギリス人ではないけれど、何となくほっとした、というのが正直な感想。Saint Andrewsの青いクロスのないユニオンジャックなんて、あり得ないよ、と思っていたし。

という冗談はさておき。

結果は以下の通り。

Scottish Referendum Final Result

Scottish Referendum Final Result

グラスゴーとダンディーを除いては、マジョリティがイギリスに留まることを選択した。かといって、この結果が即ちキャメロン保守党政権の勝利というわけではない。スコットランドの「独立」は免れたものの、今回の一連の独立運動の中で明らかになった政治権力のありかた、特にイギリスを構成する4つのnation(England, Scotland, Wales, Northern Ireland)間の政治権力の分配と、イギリス全体としての国家政策が誰の利益を代表しているのかという問題は、今後も影のように保守党政権につきまとっていく。はず。

イギリスの「今後」については、こちらのメデイアが様々な視点から論じているので、今回は国際関係学の視点からスコットランドの独立投票が意味することについて考えてみたい。

No empty space!

No empty space!

世界地図を想像してみて欲しい。

と言えば、まあ、ほとんどの人が上にあるような地図を想像するだろう。地球上の陸地が国家に分類された地図だ。そこには、パレスチナ等の係争地を除いて、国家が占領していない土地は無い。国家によって分類・色分けされた地図は、従来の国際政治の縮図でもある。つまり、国際政治は国家によってほぼ独占されていたわけだ。

ところが、冷戦後、これまでの国家を中心とした国際政治の見方を否定する考え方が登場した。以前、Empire / Multitude の投稿の中でも書いたが、冷戦の終結は脱国家化へつながるとする考え方である。どういうことか。冷戦構造の崩壊、リベラル・キャピタリズムの勝利、相互依存関係の深化、グローバリゼーション・テクノロジーの発展による時空間概念の変化により、これまでの国際関係を規定してきた様々な境界線が曖昧になり、結果として境界線によって規定されるテリトリーを基盤とした国家主権概念が形骸化、主権を拠り所としてきた国家の「力」が衰退する。その結果、国際政治はウエストファリア体制からポスト・ウエストファリア体制に移行する。ここから導きだされる、一見ロジカルに思える結論、それは国際政治の脱国家化であろう。EUの発展も脱国家の動きと見ることが出来るし、これまでにない国境を越えたヒト・モノの移動の増加、グローバル・ガバナンスを目的とした様々な国際機関の権限の拡大、国家に対抗するwikileaksなどの登場、これらも脱国家の動きとして考えることができる。

と考えてみたところで、単純な疑問に行き当たる。国際政治のパラドックス。もし、国家が国際政治の舞台の主役の座を降板し(ようとしてい)たと仮定すると、なぜ、スコットランド、バスク、パレスチナ、アラブの春、そしてISIS(イスラム国)など、世界のいたるとことで、人々は自らの国家を樹立しようとしているのだろう?そもそも、なぜ、私たちは国家を必要とするのだろう?

Self-determination / independence / the nation-state

Self-determination / independence / the nation-state

少々、目的論的な答え。国際政治は未だに国家を基本単位としている。国連もEUも国家が基本単位となって加盟が承認される。国際条約も国家間で締結される。現在の国際政治に参加するなら「国家」であることが最も手っ取り早い。テクノロジーの発展がもたらした(the temporal velocityなんて言われる)時間概念の変化、グローバリゼーションのプロセスであり結果でもあるとされる国境を越えたヒト・モノの行き来、国家の枠組みでは解決が難しいとされる様々な問題(環境問題や移民問題、資源管理など)とグローバル・ガバナンスの登場・・・国家の権力に対抗するとされる様々な動きも、結局、国家の枠組みを乗り越えてはいないのではないだろうか。

もう少しミクロなレベルに視点を落としてみると、そもそも、現在の政治的な主体としての私たち個人は、そのあり方を時空間的に限定された枠組みに規定されている。(社会が先か個人が先かという政治哲学的な議論はひとまずおいておくとして)社会契約によって国家は国家として成立し、私たちは政治主体となる。政治的な主体としての個人と国家は相互依存関係にある。と、すると、ポスト・ウエストファリア体制とは、つまり、単純な脱国家化ではなく、国家と個人の社会契約を、国家以外の何かと個人との社会契約に置き換えようとする動きと捉えることができる。しかし、このポスト・ウエストファリア体制、時空間的に限定された枠組み(つまり、国家間の境界線)が形骸化することによって成立するというその特性のため、そこにおける社会契約、つまり権利と義務・主権の在り処そのものも曖昧になる。乱暴に言ってしまえば、ポスト・ウエストファリア体制においては、私たちが政治主体として存在するための根本そのものが担保されない(可能性がある)ということだ。

Ratification of the Peace of Westphalia (by Gerard ter Borch, Münster, 1648)

Ratification of the Peace of Westphalia (by Gerard ter Borch, Münster, 1648)

だからといって、国家がその絶対的な地位を、今後、永久的に持ち続ける、ということでもない。国家は結局歴史的な産物である(だから、その地位が変化する可能性は大いにある)。ただ、現状で言えること、それは、国際政治の中心は未だ国家であり、私たちの政治主体としてのあり方は国家に拠って規定・担保されているということだ。だからこそ、人々は国家樹立を目指すわけで、だからそこ、私たちはまだウエストファリア体制の政治システム、そしてその体制が規定する世界の見方(世界地図を考えてみるといい)から脱却していないのだ。

と、国際関係論の現実主義的な立場に行き着いてしまった。

スコットランドの独立が示す国際政治のパラドックスを考えてみると、国際政治において現在指摘されている様々な「変化」は、国家を中心とした国際政治の根本的な変化ではなく、むしろ、これまでの国際政治の枠組みの内部でおきているちょっとした修正にすぎないのかもしれない。

A

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中