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先日、飲んだ後に、どうしても〆のラーメンならぬ〆のフライドポテトが食べたくなって、近所のバーガーショップでポテトをオーダーしたら、後ろに並んでいた酔っ払い男子に言われた。

“Are you really going to eat that? (それ、ほんとに食べるわけ?)”

食べるよ、飲み過ぎてお腹すいてるし、と答えたら、”Oh, babe, please don’t. You should keep your nice shape….! One moment on lips, lifetime on hips.”と。うまい感じにライミングしてきたので、思わず笑ってしまったのだが、やっぱり、ほっといてくれよ、ともやもや思ったわけ。

で、もやもやの原因を少し真面目に考えてみた。

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Obsession / social pressure / self-esteem

現代社会に生きる女性(特に飢餓の心配のない先進国に生きる女性)は、常日頃、「痩せなければならない」というプレッシャーにされされている。イギリスは日本と比較すると、フェミニズム的考え方が広く受け入れられている社会で、「ありのままの自分を愛するべき」という女性を啓蒙しようとする主張が至る所でなされている。それでも、日常のそこかしこに「痩せていることが魅力的」というメッセージが潜んでいるのだ。ビルボードはスリムで(超絶的に)美しい女性が、彼らにしか着こなせない服を着たイメージばかりだし、テレビは料理番組の後にダイエット番組を放送する。女性をターゲットにした雑誌は「ありのままのあなたが美しい」という記事の次に「1週間で5キロ痩せる方法」なんていう記事を載せたりして、女性たちをさらに混乱させる。なんだかんだ言って、結局、痩せろってことね、という結論に至らざるを得ない。女性たちは常に理想の身体イメージと現実の身体の間で悶々と揺れ動く。そして、理想と現実の乖離が大きければ大きいほど、自己否定の度合いが大きなる。自己肯定と現実の身体を理想に近づけることに執念することは切っても切り離せない関係にあるのだ。

自己肯定(もう少し大きく言えば自己認識)と身体の問題。哲学においては、この問題は所謂「心身問題」というもので、デカルトの『情念論』に代表される、精神と身体を独立した実体と捉える心身二元論的立場と、メルロ・ポンティに代表されるような、精神と身体を一体とみなす現象学的立場がある。しかし、哲学的な解釈は、なぜ女性が強迫観念にも近い思いで痩せることに執念するのか、という疑問には答えてくれない。従って、少し別の視点からこの問題を考えてみる必要がある。

"Eat more! Boys love to have something to squeeze."

“Eat more!”

アネクドートをもうひとつ。先日、大学の職員専用のキャンティーンのサラダバーで注文していたら、知らない男性がやってきて一言。”Eat more! Boys love to have something to squeeze!” 男性はガリガリの女性より少し豊満な女性のほうが好きなんだ、と。

ポテトフライを食べようとしたら酔っ払い男子に「体型を維持するために食べるな」と言われ、サラダを食べようとしたら「男性にとって魅力的な体型になるためにもっと食べろ」と言われる。どちらの場合も、「男性の視線」が「女性の体型はこうあるべき」という理想像の根源にあるのだ。「男性の視線」が「女性のあるべき姿」を決定するというロジックは、別に真新しいものではない。これは、「女性は男性の所有物である」というアダムとイブの時代からの考え方の名残なのではないかと思う。自分の所有物対しては何をしてもよい。これは、所有者の権利(entitlement)である。女性は男性の所有物であるから、男性は女性の体型に関してコメントする権利(entitlement)がある。それが、たとえ赤の他人であろうとも・・・。酔っ払い男子のコメントもサラダバーの男性のコメントも、無意識的な所有権の主張にほかならない。(Mが以前の投稿でこの問題に触れている。)

Eat whatever you want.

Eat whatever you want.

もちろん、男性のこうした無意識的な所有権の主張は問題である。女性の身体は、私の身体は、私のものであって、他の誰のものでもない。しかし、男性の無意識的所有権の主張がいまだ根付くよく残っている原因の一端は女性の側にもある。(全てとは言わないが)多くの女性たちは、日常のそこかしこに潜む「痩せなければならない」というメッセージを、(困惑しつつも)完全に否定せず(或いは否定できず)、理想的な身体イメージを追い求める。そして、理想とは程遠い体型をした女性を陰で嘲笑し、自己肯定の糧にする。地下鉄やパブリックスペースで、女性同士のグループをちょっとでも観察してみるといい。待ち合わせたときの彼女たちの視線は、相手の体の頭のてっぺんからつま先まで、ぐるっと一周する。歩道を歩いていると、前方からやってくる女性の視線が私の頭から始まってつま先まで行き、また頭に戻ってくる。ほんの数秒のうちに。

女性の痩せたい、理想の身体を手に入れたいという強迫観念にも近い願望は、メディアを通して再生産され続け、結果として、男性の女性に対する無意識的な所有権の主張を肯定し続ける。本当の意味での女性の解放(emancipation)は、政治的・社会的な男女平等が実現された時ではなく(もちろん、これはとても重要だけれど)、女性が「男性の視線」から自らを解放した時に、ようやく達成されるのではないかな、と思う。(だからこそ、権利の主張ばかりをする一部のフェミニスト達には、懐疑的にならざるを得ない。)言い換えるなら、痩せなければという強迫観念は、「男性の視線」が女性の自己肯定・自己否定の基準である限り、ぬぐい去ることは不可能だということだ。

“Are you really going to eat that?”

もちろん。私の身体をどうしようと、私の勝手である。ポテトフライが食べたければ食べるし、サラダが食べたければ食べる。男性の視線、男性にとって魅力的な身体であることは、私の食欲の前ではどうでもいい。

A

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