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先週の金曜日、Photographer’s Galleryで開催中のDeutsche Börse Photography Prizeの候補者のエキシビションに行ってきた。とはいっても、一番の目的は賞の候補者のひとり、Richard MosseThe Enclaveという作品。ちなみに、その他の今年の候補者はAlberto García-Alix, Jochen Lempert, Lorna Simpsonの3名。

昨年書いた、Walking Through British Art: アートと政治の500年というポストの中で、

個人的には、「アート」とは(政治も含めた)我々の現実を移す鏡だと思っている。だから美術館に行って私がすること。それは、「アート」と(私の専門である)「政治」をつなげることだ。「アート」の中の「政治性」を考えること、それが私の美術館の楽しみ方なのである。そういうテーマを持っている者にとって、今回のTate Britainの試みは、政治が如何にアートの世界に入り込んでいるのか、また政治の変遷がアートの変遷と如何にリンクしているのかを考えるまたとない機会を提供してくれた、というわけ。

と、書いたけれど、Richard Mosseの作品に惹かれるのは、まさに、彼の写真が内包する政治性にある。ちなみに、今年のDeutsche Börse Photography Prizeの他の候補者の作品は、とてもsubjectiveでwhimsicalでintimate。それはそれで興味深いのだけれど、やはり、Richard Mosseの作品の(いい意味での)異質さが目立つエキシビションだった。

The Enclaveという作品は、かつて軍隊において使用されたカモフラージュを見破るための特殊フィルムを用いて、西コンゴにおける紛争を捉えたものである。フィルムの特殊性から、植物は赤・ピンクに映し出されるのだが、赤く染上げられたランドスケープの異質さ、そしてその色が喚起するイメージ(例えば、血、紛争など)は、見る者に対して、何か、強烈に訴えかける力を持っている(と、私は感じる)。

photo 1

The Enclave ©Richard Mosse

Richard MosseのThe Enclave、同時期にLondonの中心地Sohoにある駐車場の地下、という、何とも怪しい場所でもエキシビションをやっていて、そこでは、写真だけではなく、ビデオインスタレーションも見られる。ということで、今日、朝から行ってきた。

The Enclave ©Richard Mosse

The Enclave ©Richard Mosse

なんというか、圧倒された。特に、40分近いビデオインスタレーションに。これまで、宗教画から、ルネッサンス絵画、モダンアート、仏教画、日本画、報道写真など色々な作品を見てきたけれど、アート作品にここまで圧倒されたのは初めてかもしれない。 私自身の色彩感覚が揺さぶられる感覚。現実と非現実の境目が曖昧になる感覚。これまでの写真作品のリアリズムを超える何かを、Richard Mosseの作品に感じたのだ。

それで、ふと、昔買ったMagnum PhotographyのNew York September 11という、911を捉えた写真集を思い出した。その中で写真家のGilles Peressが

I don’t believe in words, I believe in picture

と記している。本という媒体、言葉というものの重要性を信じている(というか、ほとんど、信仰している)私にとって、Gilles Peressの発言には、当時からどうも違和感を覚えていたのだが、Richard Mosseの作品によって、その違和感は少なからず払拭されたような気がしている。

ということを一緒にエキシビションに行った人に話したら、そこから、コミュニケーションの媒体(何かを伝える媒体)としての写真と言葉の違いについての議論になった。私たちの感情や思考は、言葉・映像・音声に拠って想起され、そして言葉・映像・音声によって他者に伝達される。しかし、媒体によって想起のされ方・伝達のされ方は変わってくる。

言葉はイメージを伴わない。そのかわり、概念或いは意味を伴う。言葉によるコミュニケーションはその言葉が内包する概念・意味を共有すること、概念・意味の共通認識を通して行われる。フェルディナン・ド・ソシュール的に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係である。シニフィアンとシニフェエは必然的な関係にないのだが(例えば、「木」という文字と音が必然的に「植物の一種である樹木」を指すわけではない)、その関係が了解される体系(言語体系やその背景にある文化)の中で必然化される(「木」という文字と音は、日本語の体系の中で「植物の一種である樹木」を意味することになる)。シニフィアンとシニフィエの関係が必然的でないということは、つまり、言語コミュニケーションにおいては常にミス・コミュニケーションが起こりうるということだ。発話者が意図することを受け手が100%完璧に理解するわけではないということ。しかし、逆に考えると、言語を媒介としたコミュニケーションには、常に、受け取る側に解釈の余地があるということでもある。小説を読むという行為を考えてみるとよい。読者は作者が綴った文章(言語)を通して、作者の伝えたいことを理解しようとする。しかし、読者が皆、同じように作者の意図を理解するとは限らない。(だから、国語のテストでよくある「主人公の気持ちを100字で記しなさい」なんていう問はまったくもって意味がない。閑話休題。)簡潔に言えば、言葉によるコミュニケーションにおいては、想像を働かせるコグニティブなスペースがかなり大きい、つまり、異なる解釈の余地が存在するということだ。

photo 3

The Enclave ©Richard Mosse

一方、写真はどうだろうか。「写真は記録技術であり、芸術ではない」と言ってしまえば、写真は現実を現実として瞬間的に切り取ったもの、ということになる。「現実」なのだから、解釈の余地はないし、むしろ、解釈する必要もない。というのは、あまりにもスキマティックすぎる主張だ。何を対象にするのか、どれくらいの距離から対象を撮影するのか、対象のどういう状態を撮影するのか、どのタイミング撮影するのか、こうした選択は、確実に撮影者の心象や世界に対する態度を反映する。しかし、そうした主観的な要素は、写真のもつ写実性、「現実を切り取る」という行為の(擬似的)客観性(quasi-objectivity:quasi-としたいのは、そもそも客観性という概念そのものに対する私の猜疑心である)によって、背景に追いやられるか、或いは忘れ去られてしまう。つまり、写実性と(擬似的)客観性によって、写真が切り取る瞬間はあたかも「真実」・「事実」であるかのごとく受け取られる。写真は、そういう意味でものすごくパワフルであると同時に、危険性も孕んでいるのではないだろうか(例えば、プロパガンダ写真を考えてみると、写真の危険性がよくわかる)。

Richard Mosseの作品は、「現実」を(特に色彩感覚を狂わせることで)「非現実」的に切り取ることにより、写真が持つ写実性と(擬似的)客観性に真っ向から挑んでいるのではないかな、と思う。そういう意味で、彼の作品には、言語的な要素(シニフィアンとシニフィエ、そしてその関係の一致或いは不一致)が内包されていて、これまでの写真作品と比較すると、見る側の解釈の余地がものすごく大きいような気がするのだ。

A

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