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「あなたの仕事は糞みたいな仕事ですか?」

なぜ、突然、こんな質問を投げかけてみたくなったのか。友人との会話の中に経緯がある。

グリホサートイソプロピルアミン塩、別名ラウンドアップというアメリカのモンサント社が開発した除草剤、その有害性を訴える告発者の話から、政界・産業界・メディア・アカデミアが一体となったgovernment-industires-media-academia complexの問題点の話になり、近現代の政治、そして私たちの思考形態をも支配するガバメンタリティについて話していたら、私たちの存在はテクノ・スレイバリー(直訳すると「テクノロジーの奴隷」)でしかないということになり、現在の「糞みたいな仕事が乱立する現象」の原因はモラルと政治とテクノロジーにあるんだぜ、という結論に至ったわけ。

「糞みたいな仕事が乱立する現象」。私と友人が勝手に創造(そして想像)したわけではない。アカデミアの一部では、結構、真面目に語られている問題なのだ。なぜなら、「糞みたいな仕事が乱立する現象」は、社会学、文化人類学、経済学、そして政治学が対象とする、様々な問題を内包しているから。例えば、グローバルな資本主義経済が内包する弁証法的論理の問題、以前の投稿で書いたEmpire / Multitudeの問題、ケインズ経済学の理論的限界の問題、現代社会を支配するガバメンタリティの問題(Mの権力と資本主義についての投稿がこの問題に触れている)、テクノロジーと身体性・精神性の問題、これらは「糞みたいな仕事が乱立する現象」を出発点に、或いは終着点にして考察することができるのだ

「糞みたいな仕事が乱立する現象」とは何なのか。そもそも、どうして「糞みたいな仕事が乱立する現象」が起こっているのだろうか。David Graeberの“On the Phenomenon of Bullshit Jobs”という簡潔かつ的を得たエッセイに拠れば、答えは資本主義経済のメカニズムにあるのではなく、むしろ、現代社会のモラリティと政治性にあるという。

もちろん、この主張には少し説明が必要だ。Graeberのエッセイを踏襲して、時間を少し遡り、1930年のジョン・メイナード・ケインズの予言から考えてみたい。

 

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work to live to work

 

「20世紀の終わりまでに、テクノロジーの発展により、イギリスやアメリカのような先進国における労働者一人当たりの労働時間は週15時間になるだろう」というのが、ケインズの予言である。週15時間、週休二日として、一日3時間の労働という換算。現代のテクノロジーは、この予言を現実のものとする程度に発達している。理論的には全くおかしくない予言なのだ。しかし、実際のところ、テクノロジーは私たちの労働時間を減らすのではなく、逆に増やしている。例を挙げよう。コンピュータとインターネットの登場によって、私たちはどこでも仕事ができるようになった。退社後もメールをチェックし、ポワーポイントを作成し、報告書を書くことができるようになった。言い換えれば、勤務時間外も仕事をすることが可能になり、むしろそうすることが求められるようになった。日本のサラリーマンを考えてみるとよい。テクノロジーは彼らを仕事場から解放しただろうか。(言わずもがな。これは、もちろん、修辞的問である。)

ケインズの予言が当たらなかったこと、これは、ふたつのことを意味している。

テクノロジーは労働時間の減少をもたらす代わりに「糞みたいな仕事」の増加をもたらした。最近の米国内における雇用に関するレポートによれば、1910年から2000年までの間に、機械化の影響で第一次産業・第二次産業に従事する労働者数は劇的に減少した一方、第三次産業に従事する労働者数は3倍に増加し、全労働者数の4分の3を占めるに至った。第三次産業(つまり、”professional, managerial, clerical, sales, and service sectors”)、これが「糞みたいな仕事」であり、第三次産業の拡大が「糞みたいな仕事が乱立する現象」である。「糞みたいな仕事」がなぜ「糞みたい」なのか。第三次産業は、乱暴に言ってしまえば、私たちが生きていくうえで必ずしも必要ではないものなのだ。だからこそ「糞みたい」という形容詞がつけられるのである。(と同時に、第三次産業に従事する者のwork satisfactionは概して低いということからも、「糞みたいな仕事」とされている。)

では、なぜ、第三次産業、「糞みたいな仕事」は増加し続けているのだろう。ここで重要になるのが消費主義という概念である。消費主義とは第三次産業が提供するサービスや財を大量に購入することを奨励する経済的且つ社会的な欲求のことである。私たちは週15時間だけ働くことよりも、消費することを選んだのだ。と同時に、消費主義はなにも私たちの完全に自主的な選択の結果というわけではない。消費を重視した経済政策の結果、消費することが経済的に「正しい」選択とされたのだ。つまり、私たちの欲求のあり方は、経済政策によってある程度決定されているということである。政治による欲求の決定は私たちを「消費中毒者」、言い換えれば、第三次産業が提供するサービスや財の中毒者にする。サービスや財をもっと消費したい、それにはサービスや財を提供するセクターが必要で、だから「糞みたいな仕事」は増加し続けるのである。

ケインズの予言が当たらなかったことが意味する、もうひとつの点。それは、私たちのテクノ・スレイバリー化である。ここでいうテクノロジーとは、単に機械(toolやdevice)のみを指すのではなく、機械の使い方をも指す。テクノロジーと私たちの関係は、「can’t have」から「convenicence」、そして「can’t live without」というふうに段階的に変化してきた。携帯電話がいい例だろう。20年ほど前、携帯電話は限られた人だけが持てるものであった。しかし、生産コストが低下し、通話等のサービスを提供するキャリアが登場し、多くの人が携帯電話を持つようになった。ただし、この「convenience」のフェーズは「あったら便利だがなくても困らない」フェーズである。これが15〜10年前だろうか。そして今、ほとんどの人にとって、携帯電話は「can’t live without」、なくてはならないものになった。同時に、携帯電話を介して、私たちは様々なサービスを消費するするようになっている。例えば、ソーシャルネットワーキングサービス、音楽ダウンロードサービス、地図・ナビゲーションサービス、娯楽(ゲームや動画)サービスなど、挙げればきりがない。つまり、私たちのテクノ・スレイバリー化は消費に対する欲求とも密接に関わっていると言えるのだ。テクノ・スレイバリー化と「糞みたいな仕事が乱立する現象」は切っても切り離せないのである。

 

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bullshit jobs

従って、「糞みたいな仕事が乱立する現象」の原因を資本主義経済のメカニズムに求めることは、あまり適当ではない。「糞みたいな仕事が乱立する現象」はむしろ、消費主義とテクノ・スレイバリー化が規定する私たちのモラリティ、そして消費主義とテクノ・スレイバリー化を促進する現代の政治性によるものなのだ。「糞みたいな仕事」が悪いと言っているのではない。「糞みたいな仕事」は私たちが生きていく上では本来不必要かもしれないけれど、それは、もう、すでに「can’t live without」になってしまっているのである。

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