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先週から大学の新年度が始まった。今週はインダクション・ウィーク。希望に満ちあふれた若者達(笑)を傍目に、仕事に追われていた。スラボイ・ジジェクかどこかのインタビューで“I like university without students”と言っていたけど、今はちょっと共感できる。とは言っても、教えるのは好きだ。誰かに教えることは、自分が何を理解し、何を理解していないかを確認する作業でもあるし。

今学期から、これまでの国際関係論に加え、別の授業を担当することになった。講義名は”Making Modern Japan: Great Expectation and Hard Times”。(このディケンジアンなタイトル、果たして気がついてくれる人がいるのだろうか・・・。)20人程度のセミナーを教えて3年、今学期、大規模な講義デビューなのである。せっかくなので、このブログに講義録でも書いておこうかなと思った次第。

今回は、この授業で何を伝えたいのか、簡単に。

一言で言ってしまうと、西欧が日本に対して持っている「フシギナクニ、ニッポン(=orientalism)」と、日本人が持っている日本って独特なんだぜという「欧米の他者であることの優越感(=self-orientalism)」の双方をぶち壊してしまおう、というのがこの授業の根本的な主題。で、その目的をどう達成するか。西欧で生み出され、しかし様々な理由(例えば植民地主義とか、ね)で普遍的な地位を手に入れた「近代」という概念を、日本の近代化を事例に、脱構築する。つまり、日本の明治以降の物質的かつ知識的な発展を振り返りながら、「近代」って、「近代化」って結局のところ何だろうっていうことを考えてみるということ。

もう少し具体的に。例えば、以下のような主題を考えてみたいと思っている(上手く訳せないので英語のままでごめんなさい)。

  • In what way has Japan as the Western ‘other’ internalized the idea of modernity, which is western in its origin but now seemingly universal?
  • To what extent and in what way is Japan’s attempt of modernization different from (or similar to) that in the West?
  • Is it relevant to say that the issues and challenges that supposedly ‘modern’ Japan faces today are different from (or similar to) the ‘modern’ West?
  • Could we assume that, whilst modernity generate little cultural dissonance in the so-called West, in Japan and elsewhere the trappings of modernity appear incongruous or even inexplicable?
  • Then, what is ‘modernity’ anyway?

重要なのは(というか、個人的に面白いと思っているのは)、近代化とは単なる技術発展だけには留まらないということ。近代化は啓蒙主義時代から脈々と続いてきた思考形態(つまり、世界の見方、ハイデガーが言うところの地球という物質を世界として捉える行為)を受け入れ、内在化することでもある。思考形態の受容は、同時に、人間の身体・行動の制約、モラルや倫理の規定、そして理想的な政治社会体系の実現をも意味する。スチームエンジンがどうとか、銃がどうとか、そういうことは、はっきりいってどうでもいいのでる。むしろ、思考という「自己」がコントロールしていると思われる領域が、どの程度「自己」のコントロールの外側にあるのか、近代化という概念が私たちの思考や世界観をどれほど支配しているのかを考えること、その方がよっぽど面白いし、「近代」の確信に迫るためには重要なのだ(と、私は思う)。

ただし、ここにはジレンマがある。近代化をクリティカルに再考したい。しかし、私自身が受けてきた教育は近代化を支える思考形態に基づくもので、私の思考形態は近代化を支えるそれそのものなのである。私自身が近代に特徴的な思考形態の中でしか思考巡らすことができないのに、はたして「内部告発」は可能なのだろうか?

普遍化された西洋の知的伝統、思考形態の外側にいくことは、もう不可能な気がする。とすると、フーコーの系譜学的な方法、そしてそこから派生したポストコロニアル理論とかサバルタン研究が、可能な限りクリティカルになり得る唯一の方法なのだろうか?チャクラバーティーの言うところの”provincializing Europe”は、オントロジーとしては可能かもしれないけれど、エピステモロジーとしては本当に可能なのだろうか?

もちろん、この授業は学部2年生、しかも哲学科ではなく政治学科の学生向けだから、オントロジーやエピステモロジーの話にはなかなか入っていけないだろう。ただ、日本を題材にしながら、現在の社会科学が直面している、もう少し大きな課題を示唆していけたらと思う。

A

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