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"Sex in the Cities"

“Sex in the Cities”

Mがパリに引っ越してから、国内旅行をする感覚でパリへ行っている。パリへの行き来はユーロスターを使うのだけれど、車内雑誌をぱらぱらと捲っていて、ふと目に留まった「Sex in the Cities」という(正直、くだらない)記事。

…. What I saw was the difference between flirting in Paris and London. In London, a man is usually flirting with you if he insults or ignores you. (Think a lightly more refined version of hair-pulling or bra strap-pinging). If a British man you’re not already sleeping with offers you a direct complement, then he’s probably either gay, marries or not, in fact, British. A French man, however, is probably insulting you if he isn’t actually actively engaged in chatting you up… [In Paris] a random man stopped me on the street this morning and asked if he could take my photo; yesterday a tramp told me I was ‘jolie’ and last week the man stacking the shelves in Franprix abandoned his task to tell me he thought I was hot…. I was tempted to ask what they were getting out of it. It must be a routine they have, and I wonder, is it a triumph of hope over experience, or does it ever actually work? I suspect I’m guilty of applying Anglo logic to a Parisian situation. In London people flirt (badly) with people they fancy in the hope of a return. In Paris people flirt (well) with, well, anyone; the flirting is itself the goal.

簡単に訳すと、ロンドンとパリではナンパの様式もナンパの意味も違う、と。ロンドンの男性はぎこちなく女性に声をかける、しかも、自分が異性として気になる人にだけ、ナンパに答えてくるだろうという期待を持って、声をかける。一方、ナンパが上手なパリの男性は、ナンパをすることがゴールであって、女性からのいい返事や過度の期待はない(つまり、女性に声をかけることそのものが彼らにとっての目的であって、必ずもその先をいちいち期待しているわけではない)、と。

女性によって書かれたこの記事、何が面白いのか。フェミニズムが、もうほとんどclicheになっている今の時代のヨーロッパにおいてすら、「ナンパ」というコンテキスにおけるジェンダーの差、男 / 女はこう行動すべきというようなエクスペクテーションが(無意識に)存在することを示しているからだ。つまり、flirtationという行動を起こすことが男性に期待されている一方で、それを受け止めることが女性に求められている、というナンパにおけるルールが垣間見える、というわけ。

前回の対話篇の中のビッチの鳩の話を思い起こしたい。女性は男性の視線や行動を通して「object」となると書いた。flirtationの対象となるという意味では、ナンパというコンテキストにおいて、女性は「object」になる。けれでも、そうした女性の「objectification」、対象としての女性像は、この場合、女性の側においても再生産されているのだ。flirtationを受け取る対象という女性像は、ある意味で女性自身が望むナンパの様式・意味と合致し、女性は自ら対象となる(ことを厭わない)。

ミッシェル・フーコーは「Discipline and Punish (1987)」の中で、主体・客体を巡る言説について次のように述べている。

Power and knowledge directly implies one another… [and] there is no power relation without correlative constitution of a field of knowledge.” (Foucault 1987: 27)

つまり、主体・客体を作り出す作用は双方向的なもの、主体による客体の構築は、客体自身による自らの「客体」像の再生産によって完結し、知識として成立する、と。女性を「object」としようとする男性の「(彼らの行動や言説や、社会的ルール等に拠って生み出される)パワー」を批判するのはかまわない。しかし、私たちも、女性として、女性の「objectification」の一端を無意識のうちに担っているのではないかな、と思う。

A

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