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Jardin du Luxembourg, Paris

Jardin du Luxembourg, Paris

せっかくふたりともパリにいるのだから、直接ふたりで話したことを書き留めておきたい。そういうわけで、今回は、ルクセンブルグ公園での対話篇。

ピンク男と美意識

ピンクのパンツを履いている男がいた。淡いピンクのシャツをさらっと着こなす男性はステキだ。でも、この男のパンツ、鮮やかなショッキングピンク。違和感。なぜ違和感を感じるのか、という話が始まる。違和感の背景にあるひとつの理由はとても個人的なものだ。私たちは、そのショッキングピンクに美しさを感じなかった、というだけのこと。しかし、これは美とは何かという美学の問題につながる。バウムガルテンの『美学』によれば、美とは感性的認識よって規定されるもの。つまり、美の判断基準は非言語的で、直感的で、無意識的な主観的印象なのである。では、そういった主観的印象、私たちの感性はどのように形作られるのだろう?もうひとつ違和感を感じた理由、それはピンクという色に対して付与された、私たちが「当たり前」と思っている、社会的意味にある。例えば、女の子が生まれたらピンクの服を当然のごとく着せる。「ピンクは女の子の色」だから。例えば、淡いピンクのシャツを着る男性の話をしたが、まだまだピンクのシャツを自ら選ぶ男性は少ないのではないだろうか。なぜなら「ピンクは女の子の色」だから。色にすら性差を示すといった社会的意味が付与されているのだ。「ピンクは女の子の色」と言い始めたのが誰だか知らないが、ピンクの社会的意味が社会一般に広く共有されるようになると、ピンクの持つ社会的意味に合致しない状況に出くわした時、ショッキングピンクのパンツを履いた男を見かけた時、人は当たり前の常識、男はピンクを着ないという常識を否定された感覚になり、違和感を覚えるというわけ。男、女、というようなカテゴリーは、人の知覚のプロセスにおいて重要に思われるけれど、ではカテゴリーとは何なのだろう?

カテゴリーの話

私たちの会話の中でよく問題になるのがこの「カテゴリー」とか「分類」という話。誰がここからは〇〇でここからは××、と決めたのか。決めてきたのか。久我が著書(『知の分類史』)で述べているように、様々な「知」というのは、かならず分類されている。そして、「体系化することと分類することは表裏一体の知的操作なのである。だから、ある一地域なり、ある時代なりの代表的な分類法を見ることによって、その時代の「知」の体系を見渡せる」のだ。つまり、人間というのは、ずっと昔から分類ということをし続け、そしてそれをすることによって世界を「理解」しよう、「見える」ようにしようとしてきというわけ。そして、私たちは生まれてから言葉を覚え、モノの名前を覚え、教育を受け…その過程の中で、様々なものの見方、つまり分類法を身に着け、自分の周りに広がる世界を理解していく。そして基盤となる分類法があるから、本当はどこにも線引きのしようがないような世の中のことをなんとか「理解」しようとし、「理解できた」と思うことすら可能になる。そうでなければ、世の中は本当に何もわからない/何もない場所になる。そんなところで人間は生活できない。本当に基本的な「食べられるもの/食べられないもの」という分類など、生死に直接かかわること。だからある意味、分類をするという行為は人間にとって生き延びるために必要不可欠な行為ともいえるだろう(肉体的にも精神的にも)。ただし、ここで問題にしたい点は、人間がそこにあるカテゴリーを絶対的なものと思い込んでしまうこと、そして、あるモノ・事象にはひとつの分類しかない、と思い込んでしまうことではないだろうか。そうすると、必然的に視野が狭くなり、広がりのない思考へと追いやられてしまうから。例えば、「音楽」。これをどう定義するか?どこからが「音楽」でどこからが「雑音」なのか?あるいは、どこからが「宗教」なのか、何が宗教なのか。例えば仏教を宗教と呼んだのは何を基準としたからなのか?哲学との違いは?誰がなぜその分類を受け入れたのか?当たり前と思っていることの境界線に立ってみると、ものすごくそれまでしっかりと見えていたものが突然わけのわからない形のないものになっていく…。

哲学と宗教

分類の話をしていたら、仏教ってこっちでは宗教、って当たり前のように言われるけど、キリスト教を身近に感じれば感じるほど、本当にそうなのか?という気分になってくるという話に。仏教は宗教だ、というとき、根拠として上がるのは、「儀式」「祈り」「人間を超える存在=神」。たしかに、日本では、お寺にたくさんの人がお参りに来ている。でも、その人たちは神社でも同じことをするし、神社、あるいは教会で結婚をして、お寺にお墓を持つ。そんなことは一神教ではありえない。ありえないだけでなく、「あってはならない」。つまり、〇〇教であるということは、そのほかの宗教ではない、ということ。それが宗教だから。となると、とりあえず日本社会での仏教の在り方(一般大衆の中でという意味)は、こちらのキリスト教の位置づけとは根本的に異なることに気付くのはそう難しいことではない。宗教を宗教としているのはいったい何か。仏教思想、キリスト教思想、などというときは「哲学」という側面が全面に出される。けっきょく上記したカテゴリーの話に戻り、仏教というものを「宗教」として捉えると見えてくる部分と「哲学」として捉えた時に見えてくる部分は違うと。そうすると、仏教というものを「全体」として理解し、捉えるために必要なカテゴリーが存在していないということにもなる…。あるひとつの事象が複数の側面を持ちうる、というのは人間にも当てはまる。○○さんは「こういう人、こういうキャラ」と分類してしまうとそこまで。その人のほかの側面は隠されてしまう。これはアイデンティティの問題につながる。アマルティア・センが主張するように、人ひとりに対してアイデンティティ(あるいは分類方法)はひとつではなく複数ある。それを意識すると世界が一気に広がる。発想の転換というのはこういうものの見方に対してフレキシブルな人が得意とすることなのだと思う。

二元論

生と死。善と悪。光と闇。男と女。創造と破壊・・・。カテゴリー化には様々な方法があるけれど、二元論ほどシンプルでわかりやすいカテゴリー化はない。二元論、つまり、世界は背反する二つの原理や基本的要素によって構成されるという考え方。人間は知覚する生き物だ。モスコヴィッチの『La psychanalyse, son image et son public』に拠れば、知覚することの第一歩は、<知覚する側>が「固着anchoring」と「擬物化objectification」を通して、<知覚される側>を、自らの基準(世界の見方)において想像可能で理解可能な対象にすることから始まる。世界の見方が二つの背反するカテゴリーで出来ているのは、実に、わかりやすい。けれど、世界ってそんなに単純なものなのだろうか?ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを思い出してほしい。彼は貧困から逃れるために殺人を犯す。でも彼は本当に、絶対的に、悪なのだろうか。映画『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のヘドウィグは男でもあり女でもあり、男でもなければ女でもない。『耳無し芳一』において、芳一が夜な夜な琵琶を奏で語りをする平家の亡霊たちは死んでいるけれども生きている。オーウェルの『1984』の主人公ウィンストン・スミスはビッグブラザーという全体主義的悪に抗おうとする者に見えるけれど、彼の理想とする社会が絶対的に善だとは思えない。世界は、私たちが思っている以上に、複雑だ。二元論に対して、批判的にならざるを得ないのはふたつの理由がある。ひとつは、複雑さを複雑さとして、「そういうもの」として捉えられない認識的な狭さ。もうひとつは、二元論の二つのカテゴリーの間に、subtleだけれど確実なバリュー・ジャッジメントが入り込む点、つまり、カテゴリーの間に善し悪しや道徳的優劣が決められ、ふたつのカテゴリーは調和するのではなく対立するものと捉える点。だから、現在の二元論は、究極的には一元化していくような一神教的な見方が根底にあるということ。(ちなみに、陰陽論などは一神教的な二元論とは異なり、二つのカテゴリーは調和すると説いている。)余談だが、二つのカテゴリーを対立軸として捉えることは近代国家生活の統一的秩序のための基盤なのかもしれない。というのも、近代国家のガバメンタリティ(一般社会の道義的合理性に合わせて国民を自己改革させようとする力)を考えたとき、二元論(しかも二つのカテゴリーに優劣がつけられた二元論)はシンプルでわかりやすい道義的合理性を提示し得るからだ。つまり、何が、国民として「善(=道義的合理性)」であり、何が国民として「悪(非道儀的非合理性)」なのかを、二元論はわかりやすく提示してくれる。ところで、日本の思想はどうなのだろう?日本の思想も二元論的な認識方法に支配されているのだろうか?丸山真男が『日本の思想』の冒頭で指摘しているように、日本の思想は明治以前の仏教的、儒教的、シャーマニズム的な無秩序な思想と、明治以後の西欧的な(二元論のようなカテゴリー化を基本とする)体系化された思想との融合によって特徴づけられてきた。秩序の中にも無秩序を認め、無秩序の中にも秩序を認める、つまり二つのカテゴリーの共存を認める、そうした世界観の流動性が日本の思想の根底にあったように思う。現在は、どうだろう?

童話

「『北風と太陽』って知ってる?あれさ、最終的に太陽が旅人のコートを脱がすことに成功するんだよってある人に話したら、で、それでって。オチはなんなんだって。太陽も北風も力ずくで旅人のコートを脱がせようとしたってところがオチというか重要なんだよって言ったらさ、その人、太陽も熱さという太陽自身の力で旅人のコートを脱がせたんだから、力ずくであることにかわりはないようね、っていわれたんだ。」「そうか・・・。ちょっと思ったんだけど、力づくっていうのはいい視点だと思うんだよね。そこからもう少し考えてみると、太陽の熱さで旅人がコートを脱いだのは、太陽の力もあるかもしれないけど、結局は旅人の意思だよね?熱いから、コートを脱ぐ。旅人の意思。でも、北風がいくら風を吹かせて旅人のコートをはぎ取ろうとしたところで、旅人にコートを脱ごうという意思はないよね?だって寒いもの。だから、自分の意志というものがこのお話の重要なところなんじゃないかな。・・・小さい頃読んだ童話で他に特に覚えているものってある?」「『桃太郎』。『桃太郎』の結末っていくつかあるんだよ。」「そうなの?」「そうそう。鬼が桃太郎に倒されて終わるものと、鬼が許されて殺されないものとかね。」「ふーん。私が特に覚えているのは、宮沢賢治の『よだかの星』。悲しくて悲しくて、二度と読みたくないって思ってね。それと同じ理由で『なめとこ山の熊』もよく覚えているよ。」「それで言えば『銀河鉄道の夜』。ジョバンニだかカンパネルラだか、死が死として明確に書かれていないからさ、ある意味で死の物語だって知ったときはショックだったな。」「日本の童話と比べると西洋の童話ってどういう特徴があるんだろう?」「西洋の童話は道徳観が強い気がする。善と悪という二項対立がはっきりしてる感じ。魔女はどこまでいっても魔女で悪だし。逆に、日本の童話はその境目が曖昧じゃないかな。例えば、元々悪であった鬼が最終的には仲間になったりさ。」「なるほどね。確かに。何を善として悪とするか、その境目って国や文化が変われば変わってくるのかも知れないね。でも、その違いってどこから作られるんだろう?」「あ、二元論の話に戻ったね。」

男と女と視野と生物学

二元論と言えば、私たちが常に意識する二元論的規定に男と女という分類がある。性を基盤とする分類については様々な側面が考えられるけれど、ここでは少し俗っぽい話をしたい。異性をじろじろ見、目で追いかける男性はよく見かけるが、女性がそうしていることはあまり見かけない。ストリートでも、パブでも、レストランでも、クラブでも。で、ここからの対話はまったく科学的根拠も無い印象のお話。男性の異性に対する視野が狭いのは、生物学的に種を残すことを目的とした性であるから、種を残したいと思う異性に瞬間的にロックオンする。だから異性に対する視野は瞬間瞬間で限定される狭いものとなる。一方、女性は子孫を残せる数が限られているので、子孫を残すための種を見極める必要がある。従って、より広い視野で様々な男を見ようと同時に比較しようとするのではないかだろうか?と、話しているうちにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を思い出した。姿を変えた利己主義として自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めることが自然選択の基準であるとドーキンスは主張しているのだ。私たちの行動が遺伝子レベルですでに規定されているとしたら、「性」というものの本質、遺伝子に規定される「性」は、どれくらい私たちの生活に根付いているのだろうと考えずにはいられない。

ビッチと鳩

男になりたいと思う瞬間があるか、ということから、二人とも「ある」ということに。そこからスタート。なぜそう思う瞬間があるのか?もちろんそれは、今の社会がやっぱりいまだに「男性中心主義的」であることから脱していないから、という理由もある。会社でも程度の差こそあれ、感じることである。さらに、日常的な視点から具体的に言えば、夜遅くに一人で家に帰る、ということが「いやだ」と感じることは、男性にはおそらく(ほとんどの場合)ないだろう。そういう点から、男性になれればもっと「楽なのに」と思ってしまう瞬間があるのは否めない。あるベルギーの女子大生が日常的に街中で男性から下品な言葉を浴びせられることに嫌気を感じ、動画を作成。内容は、彼女がふつうの膝丈のワンピースを着て、街中を歩くというもの。何も誘惑を目的とした恰好では全くない。(だいたいおしゃれをしたい女性の何が悪い)。それを後ろからもう一人が撮影。すれ違う男性の視点、投げかける言葉を録画録音していく。これによって女性が日常的に、ただ街中を歩くというだけで、どのような目に遭っているのかが明確になり、Facebookでも話題を呼んだ。これは、単純に「ナンパ」などと言って片づけられるものではないと思う。気持ちよく、さり気なく女性をほめる、という行為ではないのだ。女性は、男性から声をかけられ、断ったり、無視をすると、通り過ぎたあとに「ビッチ」と言われる(=男性のプライドを傷つけたという意味での「ビッチ」)。しかしそれに対して少しでも笑顔を向けたり、答えたり、はたまた、ついて行ったりするとそれはそれでまた、「ビッチ」と言われてしまう。いったいどうしたらいいのか?ここでフェミニズム論を展開するつもりはないのだけれど、基本的に押さえておきたいのは、様々な、気づかないところで表象されているように、男性というのは「力」であり、女性はその「object」となってきたという考え方。例えば、結婚式の場で花嫁のベールを開ける=女性を発見する、のは「男性」。或いは、性行為において女性の身体を侵すのは男性であり、その逆はない。女性を征服するのは男性なのだ。女性の身体というのは、つまり男性にとってのobjectとなり続けてきた歴史があるということ。さらに言うと、妊婦や、子供連れの女性というのは、こういう悪質な「ナンパ」行為の対象にならなくなる。お声がかからないのである。つまり。男性からの(嫌な)視点、アプローチから「自由」になり、解放されるためには、女性は女性らしい役割である「母親」や「妻」という身分になり、「所有された」ということにならなければいけないということか…ものすごい矛盾だと思うけど。・・・暖かくなった公園内では、鳩たちが求愛活動に忙しい。雄が雌を「ナンパ」している姿があちこちにちらほら。思わず、「あー、ああいうふうに女性だって「ビッチ」と言われずに遊べればいいのに…」と。もちろん、だからと言って女性であることがいやなのでもない。まんざらでもない、と思える瞬間はたくさんあるし、結局私たちだって現代社会の女性像を意識しながら生きているのだから。ただし、こうして女性であることや、様々な側面でどのように「女性像」が作られているのかを日ごろから意識し、おかしいと思うことに対してはおかしい、と言えるということが私たちにとって重要だということ、かな。

日本の会社文化、サラリーマンという”生態”

日本で「サラリーマン」というとイメージされるものがある。それも具体的なその人の仕事とは直結しない部分で。そのサラリーマンが商社マンであろうが、IT営業であろうが、総務課であろうが会計課であろうが…とにかくみんなの共通点は「サラリーマンであること」。お辞儀の仕方や名刺の渡し方などのフォーム。そして、メンタリティや趣味(ゴルフなど)。サラリーマンというカテゴリーが存在し、もはや「サラリーマンの生態」とでも呼べるようなものが存在していると感じる。そもそもサラリーマンという言葉は和製英語。こんなにもステレオタイプ化されてしまう「会社員」たち、もしくは「ビジネスマン」と呼ばれる人たち。映画やドラマにも「サラリーマン」をテーマとしたものがたくさんあれば、サラリーマン川柳は彼らの精神面をシニカルに、しかしリアルに描き出す。そして多くの人たちが多かれ少なかれそこに自らを見出す。趣味・志向、社会的な位置づけなどを考えるとサラリーマンというのは一種の「階級」のカテゴリーである。つまり、サラリーマン=日本社会の大部分を担い、高度成長期以降に増加していった「新中間層」ということ。最近は様々な研究がこのいわゆる「中流」がどのように分裂を始めているのかということについて言及している。会社の成長とともに中間層として増加した「サラリーマン」。サラリーマン文化と呼べるものすら構築してきたわけだが、彼らの存在意義、そして基盤となっていた「成長」や「会社」、「終身雇用」という前提が大きく揺らいでいる今日、サラリーマンの生態も多様化し、別の形へと変化している最中のような気がする。

地図を読む、方向感覚、感覚

散歩がてら郵便局に行った。その後、買い出しのために少し歩いてスーパーに行く。方向感覚はいい方だと自覚している。地図を読むのも得意だし、初めて行く場所でも迷うことはあまりない。以前、車で高野山まで行ったとき、初めての土地である大阪で無難にナビをこなして感心されたこともある。ところで、こういう方向感覚というものはどこで培われるのだろう?感覚という点についてもう少し広く考えてみると、例えば、辛いものを辛いと思う感覚、痛いことを痛いと思う感覚はどこから生み出されているのだろう?人は皆、辛いとはなにか、痛いとは何かを感覚的に、そして経験的に知っている。しかし、辛さや痛さの度合いは人それぞれ、全く異なるものだ。感覚というものを初めて具体的に視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚と分類したのはアリストテレスの『霊魂論』である。方向感覚とは、こうした基本的な感覚の総合と空間把握の能力に拠っているように思う。だから、こうした感覚や空間把握の能力(例えば東西南北を知るための太陽や星の位置とか)が少しでもディスターブされると、つまり、方向を知るための指標がひとつでも無くなると、方向感覚を失ってしまうのではないだろうか。海の上がいい例。海の上では目に見える指標、視覚に訴える指標(例えばランドマークとか)が無いし、天体で方向を知ることも知識がないと難しい。だから、方向感覚を失いやすい。・・・人生の方向感覚は失いたくないけど。ね。

M&A

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