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Hipster heartland

Hipster heartland

前回の投稿のあとの、Maiとのやり取り。

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M: Hipsterって実は40年代にもあったみたいだねー。ちなみにアメリカでも最近こういうカテゴリーが存在してるって聞いたよ。

A: そうそう。Hipsterってアメリカ発のカテゴリーなんだよー。現在のhipsterのメッカはニューヨークのブルックリン周辺らしい。ヒッピーとかウッドストックとかベトナム反戦とか、ああいうのもカウンターカルチャーっていう大枠ではhipsterismに入るのかも。で、面白いなあと思ってるのは、強烈なカウンターカルチャーって日本ではなかなか生まれてこないよね。どうしてなんだろ?

M: ほんとだね。まぁ、何に対しての「カウンター」なのかだけど、反〇〇とかアンチ☓☓とかって、他者(社会)からネガティブかつ排他的な感じでカテゴライズされる傾向があるよね。だから「カルチャー」まで到達しない、とか?

A: あーなるほど。アンチとその他の間に存在のための相互依存・相互構築関係が成立しないのかー。もしかしたら「カウンター」の対象になる「メインストリーム」そのものもないのかもしれない。すごく細分化されてるっていうか。「カルチャー」ってどうやって「カルチャー」になるんだろうね・・・。

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Hipsterの話から「文化とは何か」という大きなところに行き着いてしまった。ちなみに、1952年の段階で「文化」の定義は250を超えている(A.L. Kroeber & C. Kluckholm『Culture: a critical review of concept and definition』1952)。その後の所謂カルチュラルスタディーズの確立・広がり等を考慮すれば、現存する「文化」の定義数は1952年時のそれよりも格段に増加しているだろう。

「文化とは何か」。学者が一生かけて取り組むような大命題である。これを簡単に定義し理解することは到底出来ないのだけれど、稚拙ながら、少し考えてみた。

「文化」という概念を考える上でそのgenealogy的解釈は大変役に立つ。哲学思想辞典に拠ると、「文化」とは:

価値ある状態とすること。原語はラテン語のcultura, colo. 意味は耕作、培養、教養、洗練、祭祀などといった農耕用語から出発し、紀元1世紀にキケロらによって魂の耕作(cultura animi)としての、教養、心の錬磨となる。中世時代には耕作された土地、週共祭祀の意。近代に入って再び、教育、教養、文化等人間精神の能動的作用と結びつく。18世紀の啓蒙主義とフランス革命によって、文明の概念と同じく積極的な意味を担うに至る。ただし、文明が人類規模の広がりを持ちうるのに対して、cultureは、この時点では、まだ、個人の、ただし人間としての精神的完成への努力という意味が強い。19世紀初頭、ドイツはナポレオン侵略に抗してナショナリズムに目覚め、やがて自国・自民族に固有の伝統と歴史的氏名を、西欧やフランスの「文明」理念に対して、「文化」理念によって代弁させるに至る。20世紀の第一次大戦から両大戦間の仏独緊張関係は、フランスの文明とドイツの文化の理念闘争ともいわれ、前者が普遍的公共善への思考を標榜してドイツナショナリズムを「野蛮文化」と呼べば、後者は、「単なる物質的・制度的・社会的進歩にすぎないブルジョア的平穏趣味と散文的実証主義のフランス文明」に対して、「精神と魂の高貴さのためには流血も厭わぬ魔的なものの昇華としての、詩と神秘と生成と創造の民族共同体」としてのドイツ文化を顕揚した。総じて、文明が普遍的・人類的価値をめざして包摂性を示すとすれば、文化は固有価値の妥当性を主張して、広義精神主義的な上昇志向を含意する。第二次大戦後、文化は往時のように価値概念としてではなく、むしろ純粋な記述概念として、一定の人間集団の生活様式の全体を意味するに至っている。(『岩波哲学思想辞典』; A.L. Kroeber & C. Kluckholm『Culture: a critical review of concept and definition』1952; P. Beneton『Histoire de mots: culture et civilisation』1975)

つまり、「文化」とは「知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のこと」(タイラー『Primitive culture: researches into the development of mythology,philosophy, religion, art, and custom』2007:1)であり、また、ある社会を構成する者にとっては「あるものについて了解しあう際」に「解釈を手に入れる」ための「知のストック」となるのである(ハーバマス『コミュニケーション的行為の理論』1981)。

私的な解釈を端的に述べさせてもらうと、「文化」とはある社会における人間行為を媒介する体系化された象徴の総体と言えるかもしれない。

では「社会」とは何か。

またまた大きな問題に行き着いてしまったのだが・・・。「社会」とは、端的に言えば、相互作用や恊働によってそのオーガニズムが維持される世界であり、言語・慣習・規範・制度などによって規定される世界である。さらに、「社会」を考える時、私たちは所与の社会のあり方のみならず、その理想的なあり方をも探求することから、「社会」の考察には倫理的・哲学的・歴史的視点が不可欠となる。「文化」と「社会」の関係を考えてみると、前者は後者の所与のあり方と理想的なあり方を規定するもの(のひとつ)であると同時に、観察者からすると分析のツールを提供するものということになる。ただし、パーソンズが「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」(パーソンズ『文化システム論』1991)と指摘しているように、文化と社会の範囲や境界が必ずしも一致するものではないという点は指摘しておきたい。

冒頭の、Maiとのやり取りに戻ってみる。

所与の社会のあり方と理想的な社会のあり方、両方を提示してこそ「文化」は「文化」となり得るのではないだろうか。日本における様々な「カウンター」ムーブメントが強烈なカウンターカルチャーになり得ない背景には、①記述概念としての文化、価値概念としての文化のどちらかが欠如していること、②或いは統一的な全体性と諸個人をつなぐための、人間行為や象徴の体系化に失敗している点があるのかもしれない。

A

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