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サルバドール・ダリ『記憶の固執』

サルバドール・ダリ『記憶の固執』

前回の投稿(映画評)にある「生の世界と死の世界」というところから、「時間に対する近代人の意識」について、真木悠介著、『時間の比較社会学』(岩波現代文庫、1981年)をひきつつ、考察してみる。

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私たち、いわゆる近代人は、「時間」というものを測れるものとして認識している。一日は24時間として流れていく毎日。そして過ぎ去った時間は取り戻せない(時間の不可逆性)。また、私たちは何歳までに就職ができたか(するべきか)、結婚ができたか(するべきか)、出産ができたか(するべきか)において自分の社会性を計る。そして時間に縛られ、追われていると感じるが、その枠組みから少しでも出ると、不安になるものだ。

私たちの時間区分には大きく「過去・現在・未来」がある。そしてその時間は、ずっと未来に向かって直線的に流れる(進む)もの、という感覚・観念がある。本書では、この普遍的と思われがちな時間感覚が、実は長い間「異質」なものであり、むしろ原始社会の多くでは、未来というよりも、現在の生を生きることが当たり前であったことを暴いている。つまり、このような当たり前となっている「時間」すらも、唯一の「現実」ではないということ。現実というのは、もっと混沌としていて、つかみがたいものだ。だから、このように私たちが常に未来に自らを投影する形で生の意味を見出そうとする姿勢そのものも客観的に見ることが可能となってしまう。もう少しわかりやすくするために、ある原始共同体(カムバ族)から近代文明をみたら、という真木の一説を引用する。

(ケニアの)カムバ族(あるいはその他の多くの原始共同体)がもしその文化を中心において、異族としての近代文明を記述するならば、かれらは本来非現実なもの、つまりはるかな子孫のこととか百年もあとの歴史の問題を、客体視された「時間」の延長線上に幻視して思いわずらう奇妙に神秘主義的な文明、無限につづく「時間」の実存性というフェティシズムにとりつかれた集団として語るだろう。(p.77)

近代人は、時間を直線的に流れるもの、そして測れるものと前提したために「死への恐怖」を抱くようになり、そしてその時間の直線上において、個人一人一人の生の時間というのがあまりにも短いことを意識することにより、「生の虚無(ニヒリズム)」を感じるようになった(いろいろな経験をしてもすべての人間は最終的には死という終わりを迎える、だから生(現在)に意味が見出せない、ということ)。この生の虚無感というのは、近代人が自然を疎外し、個人(エゴイズム)として発達してきた(他者の疎外)帰結、代償であるという。私たち人間が個人的に所有しうる時間はせいぜい数十年。そして地球の命(量としての時間)はそれに対してあまりにも長い。近代に入り、人は「私」を中心とした考え方を持つようになった。これが近代文明を支える「個人」の発見である。真木は、この状態を、「近代的自我のアイデンティティは、はじめから矛盾のうちにある。近代的自我は一方において、現にある関係からの飛翔を求めつづけると同時に、他方において足許のくずれ去るようなリアリティの喪失感に付きまとわれている。それは持続するたしかな時間にあこがれながら、現に持続する時間の粘着力からの切断を求めてもいる(p.252)」とする。

今ではすっかり近代化した日本も近代化が進むまでは、むしろ原始社会的な時間感覚を持っていた。本書の中では、古事記、万葉集、古今和歌集などをひきつつ、日本的時間意識が、律令国家の成立を背景としながら、どのように変遷を遂げたかが描かれている。

ここで、前回のAの投稿「映画評:怪談 (1964)」につながる。生の世界と死の世界というのが混同する、あるいは二つの世界を流動的に行き来するという感覚。それは、時間というものが必ずしも直線として認識されていなかったということでもある。例えば単純に、「昼と夜」の世界は、昼の次に夜が来る、といったような近代文明が慣れ親しんだ感覚(二つを貫く共通の時間)があるのではなく、それぞれが「異次元」として意識されていたのだ。真木は、「昼夜がそうであったばかりではなく、季節もそうであり生死もそうであった(p.102)」と述べている。そしてこれを「振動する時間」と呼ぶ。

それに対し、近代文明が生み出した未来に向かって直線的に流れる時間を生きる「未来志向」は、近代社会のダイナミズムを生み出し、あらゆる分野(労働、教育、政治、経済…)を組織化した。「「虹を見ると踊る」心をもちつづけていれば、近代社会のビジネスマンやビュロクラットはつとまらないのだ(p.284)」。このような近代社会が前提する時間感覚・観念を切り捨てることは不可能であり、また、望ましくもないと真木も述べている。

しかし、例えば3.11以降の原発に関する諸議論を見ていると、近代人の「未来志向」というものが本当に現代社会をダイナミックにし、様々な分野を発達させるものなのか、と疑問に思ってしまう。ケニアのカムバ族にとって「未来は存在しない」。それは単純に過去に対する未来という意味ではなく、「具象のうちにある時間の感覚と、抽象化された時間の観念の問題」である。もしも、現代社会の政治家たちが結局は自分の任期のことしか頭にないとしたら、また、私たちが放射性廃棄物処理については、それを地中深くに埋めることで10万年間の安全を手にしたつもりになっているとしたら。結局私たち近代人の「未来」というものも、原始共同体の人々と変わらず、「2年程度」なのかもしれないと思わざるをえない。

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本書は、当たり前となっている近代人の時間意識が、その近代的自我特有のものとして「形成」されてきたことを比較社会学という枠組みから考察している。現代社会における様々な現象を「時間」という観点から捉えなおすこともまた、重要なのだということを感じさせてくれた一冊だった。

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