Home

kwaidan

先週の日曜日、大学の教授の家にてdinner & film night。1964年に撮られた『怪談』を鑑賞。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談話、『黒髪』、『雪女』、『耳無し芳一』、『茶碗の中』を原作としたオムニバス形式の映画。

実は、今回のdinner & film nightにはサイドストーリがある。2月頭にロンドンのInstitute of Contemporary Artで開催されていた日本映画上映シリーズにおいて、1964年の『怪談』と同じくラフカディオ・ハーンの小説をもとにした『Kaidan Horror Classics』という映画を鑑賞した。これは2010年に作られたオムニバス映画。それなりに面白かったのだけれど、一緒に行った教授と助教授曰く、「これは1964年版を鑑賞して2010年版と比較しなきゃならん!」と。そういうわけで、今回1964年版『怪談』の鑑賞会が開かれたわけ。

1964年版『怪談』は3時間を超える映画。それに加えて参加者はみんな学者なので、一話見終わるごとに議論が始まる。結局、午後7時半に見始め、あいだにディナーを挟んで、film nightが終わったのは午前2時半。一番若年の私が一番疲れていたかもしれない。閑話休題。

長丁場だったのだけれど、最終的な私的結論は、2010年版は1964年版の足下にも及ばない、ということ。何がそんなに素晴らしいのか、もう少し具体的に書いてみたい。

物語、プロット、視点

物語の特徴は、確固たるプロットパターンと曖昧な視点にある。怪談話には基本的なプロットパターンがいくつかある。例えば、生の世界に生きる主人公が偶然死の世界に触れ、それを口外するな、したら厄災が降り掛かるぞと死者に言われる。その後、死者が姿を変え生の世界にやって来て月日が過ぎる。最終的に主人公は自らの死の世界との交流を話してしまう、というようなプロット。『雪女』がこのプロットパターンを踏襲している。或いは、生の世界に生きる主人公が無意識に死の世界に入り込み、二つの世界が混じり合い、その境界線が曖昧なっていくというプロット。これは『黒髪』や『耳無し芳一』に見られる展開である。怪談話で面白いのは、物語の語り手が誰なのか、誰の視点で物語が進行しているのがとても曖昧な点だ。欧米の映画と比較してみるといい。欧米の映画は基本的に物語の視点が明確にされている。誰が物語の語り手なのか、誰の視点で物語が進行しているのかが明確だということは、その視点を持つ主体のモラルジャッジメントが物語に入り込む。一方、怪談話に見られる視点の曖昧さは、観る側が特定の登場人物に感情移入することを難しくする。しかし、同時に、こうした視点の曖昧さは観る側に俯瞰的な視点と解釈の余地を与えてくれている。確固としたプロットがある反面、物語の視点はとても曖昧。この曖昧さが「日本的な」感性を象徴しているような気がする。

音響効果

1964年版『怪談』の最も優れた点と言ってしまいたい。『怪談』において音響効果と人物の発話や行動、つまり映像には意図的なずれがある。音と映像のずれは、観る者の不快感を煽ると同時に、言葉にはしがたい感覚的な不気味さを映画に与える。『怪談』においてそのずれが顕著なのは、生の世界と死の世界が交差する瞬間である。人が自らの周囲で起きていることを理解する際、視覚と聴覚、そして双方のマッチングは重要な役割を果たしていると理解しているが、その視覚と聴覚、音と映像がずれることで、通常の現実認識にぶれが生じるのだ。観る側の現実認識を意図的にぶれされることで、現実世界は非現実的なそれとなっていく。音の使い方、たったそれだけで生と死の世界の交差を示してしまう、これは、すごい。

ミニマリズム

台詞も、セットも、ナレーションも、カメラワークも、音響も、すべて最低限に押さえられている。可も無く不可も無く、完璧なバランス。ミニマリズムが映画の中で体現されている。ここでのミニマリズムの役割は、もちろん仏教的な禅の世界を表現することにもあるのだが、それ以上に、不気味なほどのstillness(上手い日本語が思いつかないのだけれど・・・)を映画に与えている点にもある。考えてみると、私たちの日常は常にモーション、動きによって支配されている。時間も動く。空気も動く。身体も動く。これが、私たちが慣れ親しんでいる生の世界なのだ。一方、ミニマリズムによって表現されるstillness、これは生の世界を支配する動きという根本を揺るがせる。

背景、色彩

現実世界と非現実世界、生の世界と死の世界の交差というテーマは背景の色彩や描き方によっても見事に表現されている。下の写真は『雪女』のワンシーン。

kwaidan-set1

背景の色彩や描き方がシュールレアリズムのそれに近い。なんとなく、アンドレ・マットンの『Ideas in Aragon』であるとか、イブ・タンギーの『Hakkinda』を思い起こさせる。『怪談』に表れる背景には、具体的な形態を示すものが少なく、象徴的なイメージや非現実的な色彩が多用されている。aestheticな美しさと不気味さが共存しているのだ。

と、具体的に書いてみたのだけれど、総評として。

怪談というのは、日本文学の中において、所謂「日本的な」美意識や死生観を最もよく示しているジャンルではないかと思っている。怪談における、生の世界と死の世界を流動的に行き来する感覚というもの、それは、西欧的な理性と感性の境界線を、いとも容易くぶちこわしてしまうのだ。映画『怪談』において、生と死は近接しており、時に混じりあう。生は死の中にあり、また逆もしかり。そこには理性もなければ、非理性も無い。「存在」はあるけれど、とても曖昧だ。

と、書いてみて、ふと、思ったのだが、これってメルロ・ポンティの身体のリアリティの話に近いのではないだろうか。人間の身体は「対象」になるか「自己自身(精神)」になるのか、という問に対して、メルロ・ポンティはどちらでもなく、両義的であると言っている。つまり、精神と身体の曖昧性は無自覚なものではなく、両義性を持つ曖昧性だ、と。この考えはデカルト以降の精神対身体という二項対立を批判的にみる視点なのだけれど、日本の怪談話は、物語という方法を通して、西欧哲学の二項対立をとうの昔に乗り越えてしまっていたのかもしれない。

A

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中